象山を庇護し重用してきた幸貫が没した翌年の嘉永六年(一八五三)にアメリカからペリー一行が来航すると、象山は九代藩主幸教(ゆきのり)を説いて幕府に御殿山警護を願いでたが、藩当局の反対にあって幕府への献策は引きもどされ、就任したばかりの藩の軍議役も罷免(ひめん)された。しかし、翌嘉永七年(安政元年)にペリーが再来航して横浜に応接所が設けられると、松代藩は小倉藩(福岡県北九州市)とともにその警護を命じられ、象山は軍議役として任にあたった。そして開港が箱館と下田に決まりそうになると、象山は下田ではなく横浜開港を主張してその実現のために奔走した(そのときは象山の意見は容れられなかった)。
ところが、日米和親条約が締結されてペリー一行の船が下田に去ったときに、吉田松陰(しょういん)と金子重輔(じゅうすけ)が米艦ポーハタン号に小舟で漕ぎつけてアメリカ行きを願ったが拒否されたという事件が起こった。この一件が下田奉行の知るところとなって松陰は獄につながれたが、松陰への送別の詩があったことから象山も獄に囚(とら)われる身となった。松陰と象山はともにそれぞれの在所において蟄居(ちっきょ)せよとの裁許がくだり、象山は松代に引きこもった。しかし象山は松陰をはじめ親しい者と書簡を往復させたり来訪者に密かに砲術を教えるなど、謹慎の身らしからぬ振る舞いが目に余るとして幕府から注意された。その後も象山は梁川星巌(やながわせいがん)に公武融和、挙国一致などを説いた密書を送ったり、長州藩士高杉晋作(たかすぎしんさく)と面会したり、時勢に関する詩作に励むなど、旺盛な活動は一向に衰えることはなかった。
さて、蟄居が解かれた文久二年(一八六二)から象山をめぐる環境は大きく変った。蟄居が赦免される前から長州藩や土佐藩は久坂玄瑞(くさかげんずい)や中岡慎太郎らを使節として松代に遣わして象山を招聘(しょうへい)しようとしたほか、やがて朝・幕にも重んじられるようになるなど、さまざまな政治勢力から注目され、象山は全国的な政治変動の波のなかに飛びこんでいったのである。そして将軍家茂(いえもち)の要請に応えて元治元年(一八六四)に上洛(じょうらく)して活躍する最中に、刺客の手にかかって非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたのであった。
このように象山が全国的な政治変動に身を投じていったのは、幸貫が老中として活躍したころの志を受けついだとも考えられるし、また後述するように松代藩から疎(うと)んじられたために活躍の場を京都に求めざるをえなかったという説もある。いっぽう松代藩としては、象山との関係を断ち切ったことで、藩が備蓄した軍事力を背景にして全国的な政治変動に直接参画するという路線を放棄して、多くの藩がそうであったようにもっぱら自藩の維持に腐心するという道をあゆむことになったのである。内政改革派とよばれた真田派がこのような路線を選択したのは、その保守的体質によるというよりは、後述するように藩政の諸矛盾が顕在化(けんざいか)して、危機に直面した藩体制を建て直すことが急務となったからである。