松代藩の軍備強化は七代藩主幸専(ゆきたか)のときからはじまるが、それを継承しつつも本格的に着手したのは八代藩主幸貫(ゆきつら)である。文政八年(一八二五)に幕府が異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出すなど、幕藩領主が外国の脅威を強く感じはじめた時期に藩主に就任したことが、幸貫を軍備増強へと駆りたてたのであった。しかし、それは対外危機への対処というだけでなく、弛緩(しかん)した藩体制を引き締めるための手段でもあった。父定信の政治姿勢を模範として、藩士の綱紀を引き締め領民もふくめた挙藩一致体制をつくりあげるために、幸貫は藩祖の信之をまつることなどをとおして松代藩には武勇の伝統があることを強調することで、軍備を強化することを正当化したのである。
こうして幸貫が率先して進めた軍備充実策は、全国的に「武芸は松代、柳川(やながわ)(福岡県柳川市)立花藩と海内(かいだい)並べ称せし」と評されるほどの成果を収めたという。その内容について、幸貫治政の末期に恩田派に代わって家老となった真田志摩(しま)(貫道・桜山)は『一誠斎紀実(いっせいさいきじつ)』(『北信郷土叢書⑦』)のなかで、つぎのように記している。
君(幸貫)文政年中より鋳造(ちゅうぞう)せられし大砲は二百門に止(とどま)らず、小銃は三千を下らざるべし、就中床机(なかんずくしょうぎ)廻りに備ふる小銃は発弾の迅速を旨とし、藩士片井京助に命じ、多年の日月(じつげつ)を費し精神を凝(こら)して漸く成る、当時に於ては我(わが)帝国未曾有(みぞう)の珍器なり、その装発の早き事火縄銃を二発する時間には七発を打放すべく、又気発銃・鎗付(やりつけ)銃・弾力銃を造る、其他なお数銃あり皆奇巧を極めたり、この製造文政の末より天保の初めに当たれり、(中略)弘化年間に至り鋳工鈴木総五郎を伊豆より招き、五十ポンド臼砲(きゅうほう)、口径九寸六分を鋳造せしめらる、総五郎は抜群の良匠(りょうしょう)なるを以て、なお従前の大砲を西洋の新式に改鋳せしめられ、永世俸米(えいせいほうまい)を与へ歩卒に挙(あげ)られたり、しかして五十ポンド砲は当時天下無二の大砲なれば四方に伝称し、諸藩の有志松代に来り羇寓(きぐう)し佐久間象山に就(つい)て其技(そのわざ)を学ぶに至れり、中津藩(大分県)尾上彦三、佐倉藩(千葉県)木村軍太郎、新宮(しんぐう)藩(和歌山県)目良造酒(めらみき)・三谷左馬(さま)・柏木兵衛(ひょうえ)、松前藩(北海道)下國主殿(とのも)・藤原重太其他多数遊学せし者ありと雖(いえど)も、名簿逸して尋ぬべからず、
真田志摩は幸貫路線には批判的であったが、『一誠斎紀実』では幸貫を高く評価しており、なかには誇張もふくまれている。ここに掲げた部分では、鋳造した大砲や小銃の数量、またその製造時期などについて疑問もある。しかし、幸貫が大量の、また各種の銃砲を鋳造させたとの記述は事実である。ここには記されていないが、藩の装備を火器中心に編成替えして、それに対応する軍役に改定し、藩士には日常的に武術鍛練を奨励するなど、藩の軍事力を総合的に整備・強化することに努めたのであった。また弘化ころから洋式の大砲鋳造がおこなわれていることや、佐久間象山の関与がこのころからはじまるという記述も事実として注目される。この記述どおりに、幸貫が老中となり海防掛に任じられて、佐久間象山を顧問に任じたことから両者の関係が緊密となり、またこのころに幸貫が象山らに江川太郎左衛門の洋式砲術を学ばせたことから藩の軍備の洋式化が進み、象山の洋学への取り組みもこれを契機におこなわれるなど、幸貫の老中就任は、藩の軍備増強策や、藩と象山との関係、象山自身の活動などに大きな転換をもたらしたのであった。