松代藩の軍事体制と象山

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象山が藩の軍備強化に大きな役割を果たしたといっても、かれが藩の銃砲を製造する中心的存在となったり、藩の軍事体制をになう役職についたりしたことは一度もなかった。藩の軍事体制を支えたのはつぎのような人びとであった。


 片井京助は、小諸にいた父の喜太郎が文化三年(一八〇六)に松代藩に召し抱えられてから、かれも松代藩の鉄砲師となり、幸貫が海防掛であったときに命じられて江川太郎左衛門に入門し、そこで得た技術や知識をもって洋式銃の製造や発明にあたった。

 鈴木総五郎はさきの『一誠斎紀実(いっせいさいきじつ)』の記述にあるように、弘化年間(一八四四~四八)に伊豆より招聘(しょうへい)された鋳工で、大砲鋳造や既存の大砲を洋式のそれに改鋳するなどの任務を担当した。

 金児忠兵衛も片井と同様に江川に師事して大砲を鋳造しているが、かれは銃器製作だけでなく、嘉永五年(一八五二)には武具奉行となっている。

 佐久間庸左衛門は幸貫から命じられて、江戸や甲州の石和(いさわ)(山梨県石和町)、三州田原(たはら)(愛知県田原市)などにおもむいてさまざまな流派の砲術を学び、松代藩の基本的な流派となる真田流を編みだした。さらに天保十四年(一八四三)には創設された武具奉行に、弘化三年(一八四六)には鉄砲奉行、また弘化年間に砲学局奉行など軍事の要職に就任している。

 以上のような人びとが幸貫のもとで、松代藩の銃砲などの武備や軍事体制を構築し支えたのであった。

 それでは、象山は松代藩の軍事体制とどのようなかかわりをもっていたのであろうか。かれは天保十三年に片井や金子らとともに江川太郎左衛門に入門したあと、藩の砲術の一流派である西洋真伝流の武術指南役となり、嘉永元年には藩命で大砲数門を鋳造し、同四年には金児忠兵衛が鋳造した五〇斤石衝天砲の試射を領内の生萱(いきがや)村(千曲市)でおこなうなど、ほとんどが技術指導的な分野に限られており、藩の軍事機構の役職には一度も就任していない。それは象山の視野が日本全体に広がっており、藩内よりは江戸などで活躍することを望んだためとも考えられるが、通説のひとつといってよい『国史大辞典』⑥(吉川弘文館)の「真田幸貫」の項は、藩内の海防軍事改革派と内政改革派との指導権争いのために幸貫の象山活用方針が実施できず、そのため象山も藩外で公武合体運動などにかかわらざるをえなかったと解説している(大平喜間多著『佐久間象山』もそれに近い)。