この『国史大辞典』のいう二派とは、ひとつは幸貫が藩主になったときにすでに家老であった恩田頼母(たのも)や、そのもとで奉行などを勤めた山寺常山(じょうざん)などを中心とするグループで、海防軍事改革派(仮に恩田派とする)である。恩田頼母は文政三年(一八二〇)から嘉永四年(一八五一)までその職にあり、幸貫在職時代の松代藩政をになっていた。もうひとつは、嘉永四年に家老に就任した真田志摩(しま)(桜山(おうざん))と鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)を中心とするグループで、のちに活躍する長谷川昭道(しょうどう)などもここに入る。かれらは恩田たちほどに軍備増強に積極的ではなく、相対的には内政を重視したから内政改革派(仮に真田派とする)といわれる。
社会情勢も役職就任の時期も違うので単純な比較はできないが、両グループがそれぞれ藩政を担当していた時期の軍備・軍事に関するできごとを表23に並べてみると、内政改革派が銃砲鋳造などに積極的でなかったということは事実とみてよい。
さて、この二派と象山との関係であるが、象山が活躍した時期は両派それぞれの藩政掌握期にまたがっている。そして真田派は明らかに象山を忌避しようとしており、それにくらべれば恩田派との関係が密であるから、象山は恩田派に属しているようにみえる。しかし、恩田派のもとでも象山は藩の軍事に関係する役職にはついていないし、そもそも老中幸貫の顧問に任命されるまでの象山は、藩世子の近習役(天保二年)・御城付月次(おしろつきつきなみ)講釈助(すけ)(同六年)・江戸藩邸学問所頭取(とうどり)(同十二年)というように学者として遇せられており、恩田派との関係も薄かったのである。
象山と恩田派とかかわりが出てくるのは天保末以降であるが、それとても象山の砲術などの新知識や技術を恩田派が必要とし利用したというものであった。
こうしてみると、象山が藩内で活躍しなかった(できなかった)のは、二つの派の政治抗争によって幸貫が象山を起用できなかったからという説明は説得的ではない。幸貫就任時にはすでに藩軍事力を整備・強化する体制ができており、幸貫といえどもその体制を大幅に変更したり、学者出の象山を起用して軍政のなかに組みこむことなどは不可能であったとみるのが妥当ではないだろうか。
そのように考える根拠は、幸貫の前には松代藩士たちの慣習や伝統を尊重する気風という壁が厚く立ちはだかっていたと考えられるからである。幸貫が軍備増強策を推進するために、〝武勇の松代藩〟という藩の歴史を強調したのは、根生いの家臣たちの異論を封じるためであり、それはとりもなおさず〝伝統〟の重さを、したがって思いきった人材抜擢(ばってき)などは容易なことではなかったことを推測させるのである。