こうして天保八年十月に「今般御仕法替」となって会所は「売買御手放」しとなり、「御城下町のうち、右商売望みもこれあり候ものどもへ産物品取り扱い売買」をゆだねることとされたのである。そして柏屋藤吉・菊屋惣兵衛・菊屋伝兵衛・鍵屋伴之助(いずれも松代町)の五人に五ヵ所、いままでの会所買次人(柏屋藤吉を除く)五人に一ヵ所の、計六ヵ所が絹紬類を取り扱う売買所となった。このメンバーは鍵屋以外はすべて産物会所と関係のある者たちであったし、売買所もこれまでの産物会所の買い集め・売り捌き機能をそのまま受けついだものであったが、会所からの資金提供がないという点が産物会所との違いであった。いま売買所の規定をみると以下のようである(「規定」『松代八田家文書』)。
①御会所御印これなき品はいっさい買いとってはいけない。
②仲買ども持参の品は市場に限り買いとり、市以外で居買(いがい)をしてはならない。
③白紬(しろつむぎ)・斜子(ななこ)などは厳重に規格を定める。
④商人から口銭(こうせん)を取る場合、従来からの商人については「高下(こうげ)格別」であるが、それ以外の者については一〇〇両につき一両とする。
⑤近郷から来る商人は売買所へ寄り、口銭を差しだし市張り買い取りしても差し支えない。
⑥他国商人はなるべく当所へ出向き、注文するよう心がけること。
この規定をみる限り、売買所の設置をもって産物会所の独占買い占め・売り捌き政策の失敗によるものという評価はあたらないことがわかる。たしかに藩の資金拠出による産物会所の売買は行きづまったが、かつて買次人であった清十がいったように、紬市は「最早(もはや)永続仕るべき場にも相成り、天保八酉年(とりどし)御会所御手離れに相成り」というように(「店人別規定帳」『松代八田家文書』国立史料館蔵)、領内商人の保護育成と紬市の繁栄を策するという産物会所の目的が一定程度達成されたために、その機能と役割が民間に移されたというべきであろう。
しかし、紬市を支える有力商人や仲買などが成長してきた結果、その後はかれらと生産者とのあいだに流通統制などをめぐる利害の対立が生じるようになり、また藩も領国の経済発展よりは藩財政の充実を優先させる方針に転換して、この売り捌き所政策とは異なる新たな専売制を実施していくのであった。