以上のような絹紬類にたいする藩の政策は、そこから得られる直接・間接的な収益以外に、領内の殖産興業や商人の育成、城下町の振興など「御国益(藩益)」をめざしたものであり、大筋としては幸貫以前からの路線を継承し発展させたものであったといってよい。
しかし、天保末年ころからはじまる佐久間象山の開発策は、それまでの殖産興業政策とは目的も具体策も大きく異なるものであり、その意味で新たな殖産興業策の始まりであった(以下、多くを『和合会の歴史』上 による)。
天保十四年(一八四三)に藩の郡中横目(ぐんちゅうよこめ)役に任じられた象山は、洋学の知識を利用して藩財政を充実させるべしと建議し、翌年草津(群馬県草津町)方面から岩菅山(いわすげやま)など藩の御林一帯(現在の志賀高原の大半)を調査して、「興利策二十五ヵ条」と除くべき弊害(へいがい)を列挙した「袪弊(きょへい)八ヶ条」を上申した。ここには林業開発策もあるが、鉄鉱・緑礬(りょくばん)・硫黄(いおう)・青御影石・石墨(せきぼく)・代赭石(たいしゃせき)・結麗土・ゲイプス・礬石(ばんせき)・蝋石(ろうせき)・石塩などの鉱物資源の採掘や、硫酸・ポットアスの製造、火縄や火薬剤としてのへい竹、接骨木の植栽、ジャガイモの生産などを提言しているところが象山らしい。
藩はこの建言に期待して、象山を沓野(くつの)・湯田中・佐野村(山ノ内町)の「三ヶ村利用掛」という新設の役職に据えた。これにより象山は、沓野山林から薬用や洋式の火薬にも用いられるテレメンテイナ油の採取や有用樹の植林、開墾地へのジャガイモ・薬用人参・茶などの栽培、ぶどうからワインの醸造(じょうぞう)、養豚(ようとん)などを計画したほか、白根山での硫黄の発見などさまざまな鉱物を見いだし試掘した。また火薬の原料である硝石(しょうせき)の生産にも意を用い、多くの人足を動員して三ヵ村の農家の床下の土を採取して、これに湯治客の屎尿(しにょう)をまぜて硝石を製造した。
このような象山の開発策は従来にはないまったく新しい性格のものであったが、そのほとんどは地下資源が豊富でなかったことや、未熟な開発技術と乏しい資本などが原因で計画倒れに終わった。しかしそれ以上に、地元の村人を納得させて協力させるという配慮を欠いたやり方が村人の反発を招き、つぎに述べるような反対運動が展開したことが計画を失敗させた大きな理由であったといえる。