沓野騒動の起こりは、嘉永元年(一八四八)に沓野・湯田中両村(山ノ内町)に「沓野奥六月山(一名さきくさ山)金山(かなやま)試し掘りのため、このたび職人三人、手付(てつけ)一人差し添え遣」わすので、「小屋ならびに食料、鍋・釜、たらい、敷物類、夜具、油等にいたるまでそれぞれ手配致すべく候」との命令に加えて、各組から人足一人を差しだすように命じたことからはじまった。村人は「人足の儀はこの節干草(ほしくさ)最中ゆえ何分御免下されたく候」と人足差し出しを拒否したのである。
要求に応じるようにと説得する村役人を頼みにすることはできないとみた村人たちは、直接代官に掛けあうことに評議一決して、八月十日に松代をめざして押しだした。しかし、大多数は途中の佐野村(山ノ内町)・大島(おおじま)河原(小布施村)・福島(ふくじま)宿(須坂市)・立地茶屋・三本松付近で、あとを追ってきた湯田中・佐野村の村役人らに説得されて引き返し、松代城下入り口の寺尾村(松代町)にいたった先頭の数十人も藩役人に逮捕されて、強訴(ごうそ)そのものは未遂(みすい)に終わった。
しかし、殖産興業計画に動員された村人が反対して立ち上がったということは、象山の開発策が根底から拒否されたということであって、藩当局にあたえた影響は決して小さいものではなかった。翌嘉永二年に象山が三ヵ村利用掛を罷免(ひめん)されたのは、直接的には象山のうしろ盾(だて)であった恩田派が藩政からはずされたためであったが、その恩田派の敗退もこの騒動が影響しているとみられるからである。
ところで、この騒動にいたるまでに、象山にたいする不満は蓄積されていたのである。象山が三ヵ村利用掛であった時期に、かれは少なくとも三回は沓野山林を調査しており、そのたびに十分な手当てなしの人足徴発や、草津道での駄賃稼ぎに支障をきたすような馬の徴発がおこなわれた。また嘉永元年には硝石(しょうせき)の採掘のため沓野村民の家の床下から表土を採取して、代償として土一桶(おけ)に銀一匁五分(ふん)をあたえたが、剥(は)ぎとった床板をもとどおりにしなかったために村人が復旧に迷惑したということもあった。
このような村人の生活や諸事情への配慮を欠いた徴発は、村人に物理的な負担を負わせただけでなく、日常生活を乱すこのうえなく迷惑なものとの精神的苦痛もあたえたのであった。それに加えて、これまでの上納金が見直されて増額されるという増徴が実施された。嘉永元年の奥御林の調査によって、沓野村民の御林利用による冥加金(みょうがきん)を、従来の六両二分という定額から、稼ぎ高の一割とする(そのうちの三分の二は植林費として村に下付)ことに決し、渋る村人にたいし、承諾しないならば「御山入り(沓野御林への入会(いりあい))御差留(おさしとめ)の御受書(おうけしょ)」を出せとおどして強引に承知させたのである。
こうした象山の殖産興業策や収奪の強化策は、百姓の安心立命をはかりつつ諸賦課をおこなうという従来の政治姿勢とは異なる、藩がわの利益を最優先するという新しい政策であったから、村人の反対一揆(いっき)もたんに負担増反対だけでなく、象山に代表される新しい藩政にたいする反対ということになるのであった。