課業銭の新設

765 ~ 768

従来とは異なる性格の政策が象山によって推進された時期に、松代藩ではもうひとつこれまでとは性格を異にする新しい賦課が実施された。課業銭(かぎょうせん)とよばれるものがそれである。弘化四年(一八四七)に発生した大地震と大洪水災害の復旧や手当てのための費用捻出として、嘉永元年(弘化五年、一八四八)六月から五年間を限って領民に課せられたものであった。この課業銭の性格について、やや長文になるが「申し諭し大意」から抜粋してみてみよう(『更級埴科地方誌』③上)。

(前略)よって当年より向こう子(ね)年まで五ヶ年のあいだ、前々の休日成るべくだけ減ずべく、また災害軽重にかかわらず、一ヶ月一日宛(ずつ)を御奉公日と定め、一家内より一組一村と申し合わせ、御郡中一致に相成り、男女とも十八歳以上六十四歳以下、一月に男は百文、女は三十二文の当(あて)を以て、何品に限らず手稼ぎ致し、鳥目(ちょうもく)(銭)にて成りとも、稼ぎ候品成りとも月々上納致すべく候、(中略)運よく死亡危難を免かれ候は誠に幸いの儀、殊に変災軽き村方は猶更の事、何(いず)れも天道(てんとう)の冥助(めいじょ)、神仏の加護とも存じ候、かつは死亡の者をも思いやり、その上第一御上においても深く御心痛の折柄に候へば、銘々御領分御取復の御手伝いつかまつり候志に相成り、二百年来御領内に相続き罷(まか)りあり候御厚恩を報じ奉り候時節と心得、御奉公と如何様(いかよう)にも出精上納相励むべく候、(中略)尤(もっと)も片輪ものそのほか長病人又は奉公稼ぎ等にて相励み兼ね候ものは申し立て次第糺(ただ)しを経、免除これあるべき者也、

 これによれば、領内の一八歳から六四歳までの男女(身体障害者、長病人、奉公稼ぎを除く)に、災害の軽重にかかわらず一ヵ月に男は一〇〇文、女は三二文を課するというものであるから、人頭税のようにみえる。しかし、一ヵ月のうち一日を藩への御奉公日として、その日の稼ぎ(の一部)を上納させるという建て前であるから、まさに稼ぎ(業)への賦課である。五年間という臨時的なものとはいえ、このような性格の賦課物は従来はなかったし、二〇〇年来領内で生活してきたことを「御厚恩」として強調して、それへの「御奉公」だと位置づけての徴収も従来にはないものであった。

 いまこの課業銭の村単位の徴収について一例を示せばつぎのようである(『野本家文書』長野市博蔵)。

               会(あい)村

     正月

    十八才載             利左衛門弟 樽吉

    同                佐兵太子  宇市

   〆男二人増

    六十一才除                  安五郎

    同                      平左衛門

   〆男二人減

    十八才載             英蔵子   ふく

    同                幸右衛門子 ゑい

    同                藤太子   こふ

    同                豊治妹   ふう

   〆女四人増

   一男八十九人

   一女百四人

   この銭十二貫三百(ママ)六十四文


 これは嘉永四年の「村切勘定帳」(同六年作成)の会村(篠ノ井)の一部であるが(すべての村で六四歳ではなく六一歳以上が免除になっている理由は不明)、この月には新たに賦課対象となる一八歳になった者と免除される六一歳以上の者しか記載されていないが、他の月には「奉公」の出入り、「離縁」や「縁付」による出入り、「病気」や「病気全快」による移動などが詳しく記されて課業銭賦課者が確定され徴収されている(この前提として家ごとの賦課者と金額が調査されていることはもちろんである)。課業銭賦課が銭の徴収だけでなく、領内村々の人員を移動もふくめて詳しく把握して、支配を強化するのに大いに役立ったことがわかる。あるいはそれも意図していたのかもしれない。それはともかく、こうして嘉永元年から同五年までに徴収された課業銭は総計で二三五五両余におよび、弘化大地震・洪水の災害復興対策関係に支出されたほか、慶応三年(一八六七)にいたるまで安政地震災害や病気、火事、生活困窮者支援、諸普請、助郷村などに使われ、また藩の余慶方(よけいかた)をとおしての貸付金として使われたのであった(『更級埴科地方誌』③上)。

 こうしてみると、課業銭賦課政策は藩にとっては成功であったように見えるが、実施以前から反対の動きがあったし、またつぎに述べるように「ちょぼくれ」などによる批判を生み、その後の藩政を不安定にさせた一因となったことを思えば、この政策は藩体制を危機に追いやったひとつといってよい。