課業銭は領民の農業や商業、手工業などの職種ではなく、「稼ぎ」という枠組みを設定して賦課されたということがこれまでにない新しいものであった。しかし、それは藩当局者の斬新(ざんしん)な発想というよりは、領民の大多数が日々の暮らしをさまざまな稼ぎによって成り立たせるようになっており、課業銭はそうした領民の実態に対応したものであったともいえる。つまりこの段階の領民の多くは、さまざまな賃稼ぎを家計補助以上に頼りとするようになっており、もはや農民とも商人とも手工業者ともいえない稼ぎ人(買喰(かいぐい)層)という新しい階層が形成されていたのである。
このような新しい階層が新しい意識をもって新しい行動を起こしたのが嘉永四年(一八五一)十一月十六日の山中(さんちゅう)騒動であった。この騒動の概略を、中牧村(大岡村・信州新町)の「頭立(かしらだち)・長(おとな)百姓」中村良左衛門の記録からみてみよう(『県史』⑦一八〇五』)。
「更級郡八幡(やわた)村の内代(だい)村源治と申す者徒党にて悪党者ども拾人程引き具し、小聖(こひじり)新田村を初めとして山中弐拾壱ヶ村騒立(さわだち)候」と要約される騒動の頭取は、源治(処罰の箇所や『県史』⑦一八〇六では源治郎とあるが、ここでは源治としておく)という「貧窮の百姓」であり、「角力(すもう)行司」もしていた者であったという。かれが仲間とともに「鎗(やり)など持参」して動員をかけて参加させた村々はおよそつぎのようであった。八幡代村→小池新田→聖(ひじり)峠→小聖新田※1→中牧村中山組→南牧村・米田和(よねだわ)村→外花見(そとけみ)村→慶師村※2→宮平村(ここから二手に分かれる)①栗尾→北小松尾→川口組、②門増(もんぞう)村→根越(ねごし)村花尾組→和平(わだいら)のうち下大岡→和平→川口村(また分かれる)(1)(犀川)→日名・大原村→里穂苅村→新町、(2)山和田村→中牧村→小峰→牧野島・下市場村→竹房村→吉原村→(新町のグループといっしょに)→灰原村→田野口村※3→高野村→大田原村→桑原口→大森村
参加人数は場所によって三〇〇人とも五〇〇人とも記されており、かれらは※1のところで「大音上(声)(だいおんじょう)にて出ろ出ろと申し、罷り出(まかりいで)ず候者の宅へは火を懸け、又は突き殺し候などと」脅(おど)されてやむなく参加したと記されているように、強制による参加とされているが、これが口実である可能性が高いことはいうまでもない。かれらは、先ざきで「飯等焚(た)き出させ、その上酒まで呑む」というように有力者に施(ほどこ)しを要求し、新町では「酒ならびに何品に依らず手懸り次第取り出(いだ)し申し候」とか、小峰では「三軒程へ寄り、狼藉(ろうざき)致し候様子」などとあるように、所々で打ちこわし的行為もおこない、また新町では「その上喰事等は勿論(もちろん)、見せ(店)棚の足袋・脚半(きゃはん)にいたる迄持ち逃げ致すものあり」とあるように掠奪(りゃくだつ)的行為をする者もあったようである。
さて、この騒動の目的は、頭取たちが※2のところで語ったという「今夜中松代表迄押し出し、是非々々課業は勿論、百姓立ち益(えき)に相成り候様の願い」をすることにあったようであるが、※3のところで「一体 御上様へ申し上げ方これ無き儀、殊に是(これ)と申す御願筋(おねがいすじ)もこれ無き程の不法の騒立(さわだち)」とか「多勢の者ども申し候には、銘々何にても御願筋も御座なく」というように、多くの参加者は明確な願いごとがないのに参加したと記されている。
この騒動がこれまでの一揆や打ちこわしと大きく異なる点は、参加者の願意なき行動と、頭取源治が「百姓は渇々(かつかつ)に相営み居る」者で「角力(すもう)行司」でもあり、頭取を取り巻く指導部の「同意拾人の者」も同じく「角力行司仲間」または「博奕打(ばくちう)ち等の戯(たわぶ)れ」者であったという点である。この騒動を記した中村良左衛門もこれまでとは異質な騒動と感じていたようで、「不法の騒立」という表現には御法度に触れるという意味のほかに、得体(えたい)の知れない騒動という思いも込められているように読みとれる。
また、この騒動の頭取や支持者たちが、農民でも職人でもなく、何かの稼ぎと地域の祭礼などで催される相撲の行司で暮らしを立てていた者たちであったという点は、このあと幕末・維新に各地に展開した世直しの騒動と類似している。世直し騒動は、参加者の階層や職種はさまざまであって、「困窮者」とか「貧窮者」との自覚にもとづいて結集し連帯していたということが大きな特徴のひとつであるが、この山中騒動も参加者の多くが「困窮」を共通認識として結集していた可能性が大きい。また頭取たちが相撲の行司であったということは、かれらが各地を回わっていてそれぞれの地域で知られた存在であり、そのことが山中二一ヵ村を動員するうえで大きな役割を果たしたであろうことは容易に想像される。
つぎに願意なき騒動ということであるが、このあとの明治初年にかけて信州各地にこうした願意なき騒動がいくつも発生している。これは年貢減免とか役人の不正追及とかの具体的・個別的な要求はなかったということであって、何も要求することがなかったということではないのである。現にこの山中騒動でも、頭取源治が「課業(家業)は勿論、百姓立ち益に相成り候様」松代表に願いでると述べており「願意」は存在していたのである。つまり〝家業が成り立ち、百姓の暮し向きがよくなること〟が願意であって、これは頭取たちだけの願いではなく、参加者全員の要望でもあったはずであるが、個別具体的ではなく抽象的であるだけに、藩などからの問いかけにたいして、そうした願望を的確に述べることができなかったことが願意なしと受けとられたのであった。つまり山中騒動では〝生活向上〟を要求スローガンには掲げていなかったが、その後の各地の騒動では、それを「世直し」「窮民救済」などと掲げる世直しの騒動として展開させていったのであった。
このように見てくるとこの山中騒動は、松代領をふくめた信濃国(長野県)における維新変革期に固有の民衆運動、すなわち世直しの騒動の始まりを告げる騒動であったといってよいだろう。
以上のように嘉永期(一八四八~五四)になると、松代藩政も民衆運動も新たな段階を迎えたのであった。