幸貫の藩政執行は独断的でもあって、それにたいする諫言(かんげん)や批判的落書(らくしょ)などは藩主就任当初からあった(たとえば文政九年の北沢源次兵衛宛の幸貫書状(『矢沢家文書』真田宝物館蔵))。しかし批判的な落書やちょぼくれなどが多く出まわるようになるのは嘉永四年(一八五一)ころから以後のことである。
そもそも幸貫が藩主に就任した時点で、家中の者の役料はもちろん、知行の半知ないし三分の二、四分の三の上納を奨励したり、村方から財政再建のアイデアを募ったり、最後まで手を付けないはずの軍用金を取り崩さなければならないほどに藩財政は窮乏していた。そうしたなかでの軍備増強であったから、それが順調に運んだわけではなかった。たとえば、前記の文政九年(一八二六)に制定された軍役の実施状況は、翌十年段階で軍役に対応できた者が一二一人、具足や馬具、従僕などを用意できない藩士が二九〇人以上にものぼっているのである(「御軍役」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
このような無理を押しての軍事政策が進められるいっぽうで、年貢皆済促進のための報償金制度や殖産・専売制、凶作への対処や困窮者の救済策、家中救済策などが実施され、また藩祖祭りなどを通じて〝武勇の藩松代〟を謳(うた)いあげることで藩内士民の意識を幸貫のもとに集中した結果、幸貫への不満や批判はくすぶりつづけたものの、大きく噴出することはなかったのである。
ところが、嘉永四年ごろからまず象山にたいして、ついで幸貫にたいする批判が表面化している(以下のちょぼくれは『松代町史』下)。
しゅり(修理、象山)もせで、書物をあてに押強く、うてばひしげる高まんのはな
大砲を打ちそこなってべそをかき、あとのしまつをなんとしやう山
ここにあげたものはいずれも象山の大砲の打ち損ないを皮肉ったものであるが、これは象山が金児忠兵衛鋳造の五〇斤石衝天砲の試射で落下地点がずれるという失敗をしたことと、同じ嘉永四年に松前藩からの依頼で鋳造した大砲が上総(かずさ)国姉ヶ崎(あねがさき)(千葉県市原市)での試射で砲身が破裂するという二つの失敗を指している。これらの失敗による象山の権威の失墜が、象山への批判を表面化させたと考えられる。
つぎに幸貫を批判するちょぼくれは、たとえばつぎのようなものである。
役にも立たねへ武具ばか拵ひ大金費(ついや)し
国の政治は投げやり、三方家に似合はぬ役義を望んで、下を苦しめたる金をばそこらここらへ賄賂(わいろ)にふりまき年来勤めた家来を追ひ込め、奉行共をも矢たらと引替(ひきかえ)
地震と水とに痛んだ百姓救ふ手段と御為(おため)ごかしの弁(べん)ばか振(ふる)って、課業と名付(なづけ)て男より月々百文、女もゆるさず三十二文をめったに取故(とるゆえ)領内気向(きむき)が甚だよくない
最初が武器製造、つぎが老中就任、三つ目が人事、四番目が課業銭という新たな賦課に関する批判というように、幸貫の軍事政策や藩政運営などが批判の対象である(一四章五節一、二項参照)。
このような批判が出てきた背景には、先述したように象山の殖産興業策への反対一揆や世直し騒動の先駆(せんく)である山中騒動など、象山・幸貫の進める政策への反対運動があった。そしてそのような状況のなかで、嘉永五年五月六日に幸貫が藩主の座を幸教(ゆきのり)に譲り、その約一ヵ月後の六月八日に死去したことが、幸貫への批判を公然化させたと考えられるのである。
両者への批判の多くは落首や狂歌、ちょぼくれなどの形でおこなわれた。作者は民衆や藩士のなかのインテリであったと考えられるが、内容は作者個人あるいは特定の政治勢力による批判の表明というものではなく、不特定の多くの士民の思いを反映ないし代弁したものといってよい。つまり、これらの落首やちょぼくれなどは、象山や幸貫にたいする藩内の批判的世論であったといえる。
幸貫とその路線に忠実な恩田派に対抗した真田派は、このような世論を背景にして登場したのであるが、しかしかならずしも世論に支持されていたというわけではなかった。その証拠に真田派を批判する落首も出されていたのである。
①鎌原(かんばら)(石見(いわみ))や河原(かわら)和尚(舎人(とねり))も案山子(かかし)にて、壱岐(いき)(小山田)殿までも同じ振りして
②松代の乱れしもとは菅九(菅沼九兵衛)にて、其(その)源は伊野(いの)(鎌原伊野右衛門)志摩(しま)(真田志摩・桜山)
①は三人の家老にたいする、②は当時郡奉行であった菅沼と鎌原・真田の両家老への批判である。
これらは嘉永五~六年のものと考えられるが、真田派もまた批判の対象とされていたのであって、そのため表25のように恩田派と真田派はめまぐるしく交代を繰り返したのである。つまり頻繁(ひんぱん)な交代劇は、両派の激しい抗争というよりは両派が不安定であったために起こった現象であって、藩政そのものが領民などから批判されるという藩体制の危機的様相のあらわれであったといってよい。