佐久間象山浦賀へ

778 ~ 781

  泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)(蒸気船)

  たった四はいで 夜も眠られず(「夜もねれず」とも)

 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる二隻の蒸気船と二隻の帆船が、江戸湾浦賀沖(神奈川県横須賀市)にあらわれたときに詠まれた狂歌である。当時のお茶の銘柄「上喜撰」にひっかけ、お茶をたくさん飲むとカフェインでなかなか眠れないことに重ねている。幕府をはじめ江戸の庶民の驚きも尋常ではなかった。黒船(ペリー艦隊)の来航は、二〇〇年余の鎖国体制の根幹をゆるがすものであった。

 ペリー艦隊が那覇(なは)(沖縄県)を出港したのが嘉永六年(一八五三)五月二十六日であった。六月三日昼ごろに伊豆沖を通過し、江戸湾の入り口浦賀沖には夕方に着いた。四日、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(いずのかみうじよし)は組頭の香山(かやま)栄左衛門を江戸へ急派し、幕府に黒船の来航を告げた。幕府へ知らせてまもなく、佐久間象山へは幕府勘定奉行で海防掛をしていた川路聖謨(かわじとしあきら)から伝えられた。


写真1 ペリー提督胸像
  (横須賀市博物館久里浜分室)

 佐久間象山は「浦賀日記」(『象山全集』②)につぎのように書いている。「嘉永六年癸丑(みずのとうし)六月四日暁(あかつき)、注進承(うけたまわ)り直ちに新橋(あたらしばし)御屋敷へ罷り出(まかりい)で、御用番へ相届け、御足軽両人召し連れ出立致し、その夜四ッ時(午後一〇時ごろ)浦賀着」。つまり、象山は六月四日の夜、黒船来航を聞いてすぐに新橋にある松代藩邸に行き、在府月番家老の望月主水(もんど)にその旨を告げ、藩命をうけ足軽二人をつれて浦賀へ出発した。浦賀へ着いたのは夜一〇時ごろであった。足軽二人のほかに、越後長岡藩士で「米百俵」で知られる小林虎三郎らの門弟が何人かついてきた。

 佐久間象山はこれよりさき嘉永四年(一八五一)四月、松代から家族をつれて江戸木挽(こびき)町に居を定め、お玉ケ池に塾を開いていた。黒船来航を、川路聖謨から伝えられた象山が浦賀へおもむき、ペリー艦隊の動静をさぐって書いたのが「浦賀日記」である。「浦賀日記」のあらましはつぎのようである。

 六月五日朝、山に登り異船のようすを見る。また、夕方にも同じ所に出て見る。日に映って朝よく見えなかったところが鮮やかに見えた。船から楽器の演奏が聞こえ、それはオランダ兵の鼓(つつみ)に似ていた。なお、母にあてた手紙では「昨晩四時すぎ浦賀迄着致し候ままご安心願いあげ候、今朝はやく起き候て山に登り渡来の船ども一見候ところ、かねて聞き候通り大そうなるものに御座候、都合四そうのところ二そうは蒸気船と申すにて火の力にて風にさからい候てもさしつかひなく走り候船に御座候」と伝えている(『象山全集』④)。

 六月六日昼、浦賀の実情の書き留めを望月主水に渡すため足軽にもたせた。蒸気船一艘(そう)が北へ乗りだしてきたと騒がしく聞こえたので、門弟に山へ登らせようすを見させた。観音崎(かんのんざき)(横須賀市)を通り越し帆柱も見えないとの報告であった。「内海へ乗り入れるとなると江戸は大騒ぎになるのではないか。藩の御屋敷のことも気づかいすぐに浦賀を出発する。大沢にて船に乗り蒸気船を追うように行くが、蒸気船とは一里余もへだたってしまった。さらに船を乗り換え、夜一二時すぎに帰り、ただちに御屋敷へ行き、異船のようすではますます猛威をふるう恐れがある、大砲弾薬の準備は緊急である」と望月主水に上申した。さらに、大砲の御用掛に蟻川賢之助(ありかわけんのすけ)を、藩の調練頭取(とうどり)に中俣一平(なかまたいっぺい)をあてるよう申し上げた。以上のように「浦賀日記」には、ペリー艦隊について具体的には記述していないが、望月主水への手紙では「大砲二八門備え」などと詳しく報告している(『象山全集』④)。

 ペリー艦隊は六月三日に来航し、九日に久里浜(くりはま)(横須賀市)に上陸して、アメリカ大統領の親書を渡している。十二日に帰帆するまで江戸湾の川崎沖(川崎市)まで測量をしたり、ときには江戸湾の奥深くまで入ったりしている。ペリーが四隻の艦隊を率いて来航した一〇日間のできごとは、幕府をはじめ支配者層から庶民まで計り知れない衝撃をもたらした。

 当時流行(はや)ったちょぼくれ「浮世流行 アメリカ物語り」(『市誌』⑬四六八)に「ヤレ/\/\来たとこが渡来て、アメリカノメリカオロシヤカどふじやかなんだかかんだか、めつたにやたらにそこでもこゝでもおあいだ噺(はな)しだ、そも/\世上の噂をきゝねい、先年こつちい黒船さわぎて見るのも聞のも行のも来るのも交易/\、其時次第にのらりやくらりと一寸のかれに瓢(ひきご)のなまづがなまけたやうなる返事をするゆえ、どつこいうまいぞこいつわ一はい呑ませる気込か、一はい処か二はいが三ばい四はいと并(なら)べて、蒸気船とハ茶にした了簡(下略)」とうたっている。ペリーが率いる黒船来航を機に、世相を風刺した狂歌やちょぼくれがさかんにつくられるようになり、情報としてひろがっていった。


写真2 ペリー上陸記念碑
  (横須賀市)