佐久間象山の「浦賀日記」六月九日の項に、「御殿山(ごてんやま)なくしては御府内(ごふない)にては、大砲は用い難く候、御府内に尤(最)(もっと)も近くして大砲を用い申すべき場を鑑(かんが)み候時は、外(ほか)にこれなく御殿山近辺しかるべしと相考え候」と記している。
御殿山は日本橋を起点とした東海道五十三次の一番目品川(しながわ)宿(東京都品川区)の近くにあり、江戸御府内のなかで数少ない丘陵となっており、桜の名所としても知られていた。御殿山は諸大名が参勤交代で御府内に入るときの出入り口にあたり、参勤交代の送迎のために御殿が建てられたことから「御殿山」とよばれた。
六月九日早朝、家老望月主水のところへ行き、幕府に警衛について内願するようにと主水に進言している。そのとき話のなかに出てきたのが、品川の御殿山である。象山は「先代の真田幸貫(ゆきつら)侯が終々外的にたいして御苦労し、大砲をつくり松代から取り寄せてきた。御警衛ともなれば、追々警固も仰せつけられるであろうが、松代藩邸には数挺の大砲があることも知られており、今日にも警固場を仰せつけられても大丈夫である」などと述べている。さらに、「大砲を用いるにはまず地の利を選ばねばならない。それについて私はすでに考えをめぐらしてきたが、御府内にも候補の場所はあるが大砲を用いうることはできず、御府内にもっとも近くして大砲を用いうる場所は御殿山近辺を除いてこれなし」と、述べている。
望月主水の承諾を得た象山は、その日、藩御留守居役(るすいやく)の津田転(うたた)に付き添われて、幕府の老中首座阿部正弘(まさひろ)、海防掛老中牧野忠雅(ただまさ)のところへ行き、阿部正弘に口上書(内願書)を提出した(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。象山は内願書で、「御殿山は福井藩が警衛を仰せつかっているが、御殿山はひろくほかにも警衛する場所があるので仰せつけていただきたい。少人数ではあるが力の限り防御(ぼうぎょ)をしたい」と述べている。その最後に、御殿山の警衛は、亡くなった藩主真田幸貫の志を達成することであると強調している。この日、象山は藩の軍議役を命じられ、砲術は象山の門弟でなかった者もすべて象山に入門すべしと家臣へ申し渡された。
六月十日、前日の内願が幕府に認められたので、象山は万一異国船が品川沖に乗り入れたときの備えをみておこうと、すでに福井藩が警衛している御殿山へ行き、福井藩の物頭(ものがしら)に話をつけ福井藩の北がわに警衛場所を設ける承諾をとりつけた。しかし、老中阿部正弘からは「時宜により人数を差しだすことになるから準備して控えているように」との話であった。
十一日、象山が朝食をすませ家を出ようとしていたところへ、藩士で絵師でもある三村晴山(みむらせいざん)がきて海防掛の牧野忠雅家中から異国船が深入りのようすとの知らせをうけた。象山は藩邸へ行って望月主水と相談し、動静を見定めるため馬を走らせて大森村(東京都大田区)の毛利藩の警衛場へ行った。さらにこの日には大砲演習の世話をしている。
十二日には、藩の御馬場で足軽の隊列、行進の訓練や砲術の稽古がおこなわれ、教練の仕方を改めている。
十三日、「早晨(そうしん)(早朝)より出(い)で大銃稽古を致し候所、夕刻異人退船の事注進これあり、銘々少しく安堵(あんど)候事に候」として、「浦賀日記」は終わっている。
象山が幕府老中阿部正弘に内願書を提出した六月九日、浦賀の久里浜(くりはま)に仮設した陣屋で、上陸したペリー提督らから幕府は国書を受けとっていた。また、象山が願書を出した御殿山警衛については、国元の藩政をになっていた鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)、長谷川昭道(しょうどう)(深美)などの反対にあい、取り下げられることになった。ペリー艦隊が帰帆し象山が考えた御殿山の警衛は実現にいたらなかったが、翌年ペリー艦隊が再来航したとき、松代藩は横浜村(神奈川県横浜市)の応接場の警衛を分担することになる。
松代藩は同年十月、本牧(ほんもく)(横浜市)・横浜で総勢四三〇人ほどで軍事教練をしている(『市誌』⑬六二)。なお、この年つくられた品川沖のお台場に御殿山の一部がけずられている。