嘉永六年「当(六月)十一日未明 江戸出し一人飛脚(ひとりびきゃく)夜六ッ時(午後六時ごろ)過ぎ着(ちゃく)、御用状差し出(いだ)す也」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。御用状は佐久間象山が九日に老中阿部正弘に差しだした御殿山警衛内願を写し、老中阿部正弘から「時宜により警衛の仰せ付けがある」とされたことの通報であった。そこで、国元では急いで出兵の準備をしている。準備がととのったので、十五日の朝、国家老鎌原伊野右衛門と郡奉行長谷川深美らは藩兵を引き連れて江戸へ出発した。出発して二里(約八キロメートル)余り行ったところで、十三日に江戸を出てきた飛脚に出会った。「昨十二日朝、五ッ時(午前八時ごろ)過ぎ、異国船帰帆致し候につき、臨時出府の面々は出府に及ばない」という江戸家老望月主水からのものであった。江戸へ出兵しようとした陣容は家老・奉行らのほか、小頭(こがしら)一人、杖突(つえつき)一人、足軽五〇人であった。
松代藩の国元では、出兵の動きのほかに穀留(こくど)めの検討と治安の強化に動いている(『野本家文書』長野市博蔵)。六月松代藩に上田藩の穀留め情報が入ってきた。そこで、「ふだんは上郷(かみごう)辺(坂城町・千曲市)までは上田米を用いている。もし上田藩が穀留めをすることになると、値段も上がり領内のお盆用の米も六、七月ごろには払底(ふってい)になってしまう。また、地蔵峠からもわずかとはいえ入っており、もし入ってこないとなると領内に影響する」ということで、まず勘定所元締(かんじょうしょもとじ)めが協議した。その結果、穀留めをしないことにしたが、村々に命じ請書(うけしょ)を出させている。請書によると、「先般異国船が浦賀沖に渡来し帰帆したが、自然と穀類の値段に影響し高値になっていく。値段にまかせて囲ってある分まで売り払うことになるのはよろしくない。なるたけ囲い置き、払い穀してはならない。もっとも、領内融通に差し支えがないように心得よ」との指示であった。
六月二十三日、勘定所は村々の名主と頭立(かしらだち)一人ずつをよびだし、重ねて穀類売り払いについての一札を差しださせ、心得違いがないようにと申し渡した。
上田藩の穀留めの動きや、松代藩の領内穀類の売買と融通の動きをみて、藩の千曲川通船にかかわってきた横田甚五左衛門(じんござえもん)と竹内八十五郎(やそごろう)は連名で、「七月に入ったら千曲川通船を使って米を江戸へ送れるようにしたい。そのために船が通りやすいように普請をしたい」と普請金の拝借を願いでている(『真田家文書』真田宝物館蔵)。
七月十九日にロシア使節プチャーチンが長崎表へ来航しているが、このように外国船の来航がつづく状況から、幕府は藩の航海調練制限令を九月八日に廃止し、また大船の建造を同月十五日に解除した。さらに二十五日には西洋砲術修行を奨励する布達を出した(『維新史料綱要』)。松代藩もこれらをうけて、十月十五日にあらためて武術諸流同様西洋砲術の稽古をするよう家臣に申し渡した。十一月に小諸出身の家臣片井京助(かたいきょうすけ)発明の早打ち鉄砲を幕府に献上し、翌月幕府から早打ち鉄砲三〇挺の注文がきている。同月、「領内へ火薬の原料になる焔硝(えんしょう)のとれる床下の土を勝手に掘りとってはならない」と布達し(同前書)、請書を出させている。
松代藩は弘化四年(一八四七)の善光寺地震の復興のため多大の出費をしてきたが、黒船来航によってさらなる出費を強いられることになった。嘉永六年十二月、藩は幕府に財政窮乏を訴え、幕府からの拝借金の年賦返済の延納を願いでている。