ペリーがふたたび来航したのは嘉永七年(一八五四)の一月十四日であった。浦賀沖から神奈川沖まで進航した。松代藩江戸屋敷から国元へは、碓氷(うすい)峠が吹雪のため遅れて十八日朝に飛脚が着き、「幕府から指示があり、浦賀表にアメリカ船渡来につき、アメリカ使節の応接もあるかもしれないので、上陸場所などの警衛を仰せつけられたら家来を出して警固せよ。もっとも、場所は追って達するとのことである」と通報があった。
横浜警衛の具体的な動きは二月に入ってからである。二月一日に幕府から、本牧・横浜辺の応接場へ家臣を出して警衛をするよう命じられ、家臣の派遣にあたっては品川宿から応接場まで宿駅の継ぎ人馬五〇人・五〇匹を用いるよう申し渡された。佐久間象山は軍議役として出役し「横浜陣中日記」(『象山全集』②)を綴っている。
その二月六日の項に藩兵が出兵していくようすを書いている。「亜墨利加(あめりか)人応接の仮屋(かりや)、江戸より十里西南の横浜といふ所に建てられ、その警衛のためには御家(松代藩)よりと小倉(こくら)(北九州市)の小笠原家より人数を出すべき旨おおやけ(公儀)より仰せ言あり。御家よりは二月六日四ッ時(午前一〇時ごろ)に人数を出(いだ)さる。銃卒四隊ごとに二十四人皆洋銃を執(と)る。物頭二人してこれを指揮す。白地胴赤の旗二流、赤地纏(まとい)旗一本、大砲五門、一門は六斤(きん)、地砲一門は十五栂(つが)、長入砲三門は十三栂、天砲番士三十人にてこれを掌(と)る。外に長柄(ながえ)の槍(やり)四十筋、長巻二十振あり。これは警衛のとき異人往来近く小笠原家の人数に相対(あいたい)して陣をたてむには銃を用いるに宜(よろ)しからず、その時これを銃に替えて用いんとて用意ありし也。総奉行には望月主水貫恕、番頭には小幡(おばた)長右衛門、旗奉行には依田甚兵衛(よだじんべえ)、使番には石倉藤右衛門、目付には馬場弥三郎正矩、陣場奉行には白井平左衛門、小荷駄奉行には卜木次郎右衛門なんど也、某(それがし)(象山)は軍議の役にてこの日同じく出立すべかりしに別に公の事ありて、その翌七日暁に打立つ(下略)」。象山が遅れて出発したのは藩の大銃の取り調べをしていたためであった。
大砲五門は異国船から望遠鏡で見られないように覆(おお)いで包み、応接場まで運ばず途中に置いていった。松代藩といっしょに警衛にあたった小倉藩の火器は旧式なもので、松代藩のものは新式なので沿道の人びとを驚かせた。二月六日に江戸を出発し、途中川崎宿(神奈川県川崎市)に寄り、翌七日夕八ッ時半(午後三時ごろ)本牧・横浜村に着いた(『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下も同文書による)。
横浜警衛にあたって勤務につく家臣らへ、つぎのような「定(さだめ)」が発せられた。①警衛当日は煙草堅く停止(ちょうじ)のこと。②喧嘩はもちろん、口論がましきこともしてはならない。③警衛ならびに旅行(移動)の節は、高声を出してはならない。④旅宿近辺での失火の節は、下人らを騒がせてはならない、などこまかい決まりであった。
応接がおこなわれる横浜村について象山は、「この所は海岸平衡(へいこう)にして南西に低き山あり。山の北海にそうて村落あり戸数大凡(おおよそ)百軒なるべし。耕作に魚猟を以て業となす。その村の北に三、四軒の離れ屋あり。中島といふ。そのまた北に離れ屋あり、駒形(こまがた)といふ」と記している。警衛場所が置かれることになった横浜村の出入り口二ヵ所に立て札が立てられ、昼夜御徒士(おかち)一人、足軽二人ずつが門番として詰めることになった。また村内を見回り、船見物にみだりに浜辺へ出る者を取り締まっている。
二月十日が、最初の応接の日である。朝六ッ半時(午前七時ごろ)に支度(したく)触れが回り、御徒士二〇人が長巻(ながまき)をもって出役するようにとのことであった。長巻は太刀(たち)のなかご(刀身の柄(つか)に入った部分)を長くつくり、長い柄を付け、表面を縄やひもで巻いたものである。御徒士は応接場へ出役し、江戸から送られてきてあった長巻は別に武具奉行に掛けあい、本陣へ届けられた。御徒士はそれぞれの場所へ立ち、騎馬の者はおりて警衛にあたった。じっさいに上陸してきたのは昼九ッ時ごろ(正午ごろ)で、「ハツテイラ(バッテーラ。ボート)二七艘ほどにて、異人横浜の海岸へ乗り着き候節、本船にて祝砲数発、右の合図にて総督ペルリー(ペリー)、副使アータムース(アダムス)本船より白キハツテイラにて乗り出し上陸致し候」。上陸した異人はおよそ三六〇人ほどという。幕府の与力(よりき)から、警衛にあたりながら上陸や応接のようすについて八、九人ずつ見物してもよいとの達しがあり、交代で見物している。応接が終わったのが夕七ッ時(午後四時ごろ)であった。浦賀奉行から引き上げるようにとの達しがあり、七ッ過ぎ本陣へ引き上げ、そのあと銘々が旅宿へ引きとった。
十一日、十二日は応接がなく、十三日「昨日御達しの通り、今日亜墨利加(あめりか)人が献上品置き場所の見分のため上陸するので、少々の御固め人数を差しだすこと」と達しがあり、支度触れを回している。象山の「横浜陣中日記」には、「異人数輩上陸に付き、固めの人数出(いだ)すべしとの事なり。上陸のもの僅(わず)かなれば固めのものも少なくして宜(よろ)しとて、足軽二四人、番士一〇人を出す。午(うま)(午前一二時)に近きころ事済みて各(おのおの)引く」と記している。
応接は天気にもよるので、毎日おこなわれることはなかった。二月二十六日には相撲の力士が俵を二俵ずつ運ぶのを見物させている。
一ヵ月半余りの応接、交渉をへて三月三日にペリーと幕府とのあいだで日米和親条約が締結され、これにより下田(しもだ)(静岡県下田市)と箱館(はこだて)(北海道函館市)の二港が開港された。松代藩は三月五日応接場の警衛を解かれ、十四日に江戸へ引き上げた。
ペリー艦隊は条約締結後、条約締結を報告するためサラトガ号をアメリカへ帰航させた。いっぽう、ペリーが乗ったポーハタン号は江戸湾奥深く進航したあと、開港したばかりの下田港へ向かった。下田港に停泊していたポーハタン号に三月二十八日の未明、長州藩士の吉田松陰(しょういん)と元長州藩士の金子重輔(じゅうすけ)が小舟で近づき、外国へ乗せていってもらいたいと懇願した。願いかなわず吉田松陰と金子重輔は密航を企てたかどで捕らえられた。この密航事件で佐久間象山は弟子の吉田松陰に教唆(きょうさ)したとして、四月六日幕府に捕らえられた。九月十八日幕府の判決が下り、「在所(松代)において蟄居(ちっきょ)」を言い渡された。