上田藩の動向

789 ~ 791

ペリーの来航は、諸藩にさまざまな対応を取らせた。嘉永六年(一八五三)の六月十四日、上田藩は川中島領を除く領内村々の村役人を集めた。そこで「今度、異国船江戸へ渡来の始末で、もはや関東向きの米相場が日増しに上がっている。御領分とても追々米穀が引き上げになるかもしれないので、めいめい所持の米・麦・豆やそのほかの夫食(ふじき)などできるだけ貯穀しておき、手放さないようにせよ」と指示し、小前末々まで申し諭し、万一怪しいことがあったら申しだすようにと命じた。さらに、江戸への廻米用に明き俵(たわら)二〇〇俵と、丈夫にこしらえた草鞋(わらじ)二〇〇足を出すよう言い渡した。

 上田藩川中島領では、翌十五日の四ッ時(午前一〇時ごろ)上田役所へ村役人がよびだされた。そこで前日と同様のことが申し渡された。穀物を他所へ売り払ってはいけないこと。穀物を売買したいものは上田へ出すか組内で売買すること。たとえ一俵売りでも庄屋へ届け指図をうけて売り払うこと、などであった。さらに、川中島組全体で明き俵一〇〇俵、草鞋一〇〇足の提出を命じられた。

 ペリー艦隊が再来航した嘉永七年(一八五四)一月には、「異国船渡来につき、公儀より仰せ出(いだ)されもある通り、悪党ども立ち廻りもはかり難く」として、川中島領村々へつぎの心得方が出された(今里『坂口家文書』)。

① 村々の公道へ昼夜一両人ずつ出て、もし怪しいものを見受けたら役所へ申しでること。夜回りは油断なく入念に致すこと。

② 浪人など風俗がよろしくないものや、乞食(こじき)・非人などの出入りがないよう、村々の入り口へ立て札をたてること。もし村々に立ち入ったら元の道へ差しもどすこと。

③ 風儀のよくない止宿者を差し置かないこと。見慣れないものなどを留め置くものがあれば組合にて差しだすこと。

④ 村々の非常警固人足は、二〇歳より五〇歳ぐらいまでで壮士のものを、組合で相談して決めておくこと。万一非常の節は早速役元あるいは郷蔵(ごうぐら)へ駆けつけ、村役人の指図をうけること。

⑤ 非常の節、用心の棒・鳶口(とびくち)・鎌(かま)の類、そのほかの道具を用意すること。火消し道具も、なおまた入念に手入れしておくこと。

⑥ 万一悪党どもが近領へ大勢集まった場合、早々村役元に申しだし指図をうけること。御知行所(上田)へも早々村継ぎにて知らせること。

⑦ 非常の節、判木(はんぎ)・拍子木(ひょうしぎ)など木類を急いで寄せることを村方で決めておくこと。

⑧ 所領境は、わけても厳重に見張りをすること。

⑨ 米穀はもちろん、夫食になる品は大切にし、非常の節は弁当ならびに草鞋を持参すること。

 村々へのこの心得方のつぎに、さらに村役人の心得方が示されている。それには、非常の節は村々で知らせ合うこと。村内のものがどこへ出ているかわかるようにしておくこと。ことがあったときは割番(わりばん)の指図をうけること。老若のものはみだりに差しださず、村内にて弁当の持ち運びなどをさせること。さらに用意しておくものとして梯子(はしご)や細引きと「場所により小石」を用意し、上田へ注進するための「注進札」も二、三枚用意しておくこととして、その見本まで示している。そして最後に、「村役人の儀は、かような時節上下厚く心掛け精勤いたし、何事によらず腹蔵(ふくぞう)なく申しでること」としている。

 嘉永七年二月、上田藩は幕府へ藩兵の訓練方伺い書を提出した(『県史』近代史料編①六五)。それによると、異国船がきたので「深山幽陰山国の領地」であるが出兵を仰せつけられたときに備えて調練をしたい。ついてはこれまでは城内で少人数でそれも平服でおこなってきたが、今度は領内山野などで野服・陣羽織などを着用しておこないたいと述べている。

 上田藩分知の塩崎知行所では、三月に質素倹約の触れが出されている(『塩崎村史』)。