須坂藩は嘉永六年(一八五三)六月十五日から十七日まで下総(しもうさ)(千葉県・茨城県)の海岸警衛をしてきた(『県史』近代史料編①)。夫人(ぶにん)四四人の飯米代・賄い代などで金八両銀四匁五分(ふん)三厘(りん)かかっている。
椎谷(しいや)藩は、ペリー来航以前から近海に出没する外国船の来襲に備えて「非常御備え」として、領内に献金を求めていた。嘉永元年十一月、問御所村(鶴賀問御所町)の大庄屋見習いで御用達の久保田新兵衛は金子と籾(もみ)・米を献上している(『市誌』⑬一六八)。ペリーが来航した嘉永六年の十月二十日「献金名前帳」によると、今般の異国船の来航により莫大な軍用金が必要だとし、同年と翌七年の両年にわたって献金をさせている(『久保田家文書』県立歴史館蔵)。問御所村は金一三九両二分、中御所村(中御所)は金一〇両、久保田新兵衛は個人として一五両、領内の村と個人の合計が九〇〇両の割り当てである。久保田新兵衛は十二月八日に六年度分として金七両二分を献金している。献金にたいして、藩は紋付き上下(かみしも)をあたえ苗字(みょうじ)帯刀を許した。
上田藩川中島領の割番添役(そえやく)をしていた青木恕助(じょすけ)が書き留めた「御用日記帳」(『青木十郎家文書』長野市博寄託)の嘉永六年六月のところに、「御役所より御下げ紙に相成る書きつけの写し」がある。これには善光寺領と飯山領の動向が記されている。「善光寺の町飛脚の咄(はなし)には、江戸にては米八升に上がり候由、飯山様十日松井田にて米六〇〇俵御買い入れの由」と記している。松井田(群馬県松井田町)は佐久の米も集まる米の集産地であった。間接的な情報であるが、飯山藩が米買い入れの措置をすばやくとっていることがうかがえる。飯山藩は翌七年(安政元年)領内村々へ「異国船再渡来につき貯穀物等備え方」という触れを出している。飯山藩は米の流通には敏感に対応をしていることがうかがえる。