松代藩では江戸屋敷の御用夫(ごようふ)(夫役(ぶやく)、中間(ちゅうげん)奉公)を村から出させている。天保十三年(一八四二)赤田村(信更町)の百姓八五郎は一年余江戸屋敷のお抱えとなっている。田野口村(同)の保左衛門は嘉永二年(一八四九)五月から翌年の六月まで江戸屋敷の御用夫の請書(うけしょ)を出している(唐木伸雄『土に生きた村の記録』)。これは平時の夫役であるが、ペリーの黒船来航を機に有事、軍事での夫役が課されていく。
ペリーが嘉永六年(一八五三)に来航したとき、松代藩は急遽(きゅうきょ)家臣を出府させたが途中で引き上げている。このときは、御用夫の出府はなかった。同年十二月再来航に備えて、藩は「御軍夫役」を村々から出させることを決め、翌七年正月郡奉行と代官所から「このたび非常の御備えのため、毎年村々鍵役(かぎやく)役夫申し渡し」が出された(「御郡方日記」ほか『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下断わらない限りこれによる)。①二〇歳以上五〇歳以下のもので、年番交代で勤める。②当月下旬に出立して出府できるものを決める。藩から給料と雑用金が支給される。③出府人留守中、農事は村中の助け合いで差し支えないようにする。④藩から支給される以外、組合村々から手当(もあい金)を出すことはしない。⑤人選ができかねるときは鬮(くじ)で決める。⑥御用中欠け落ち(失踪(しっそう))などをしたものは、帰住願いをしてはならない。⑦六月までに手当として金二両を支給する。ただし御固め場所へ出た場合は、江戸で手当を支給する。⑧御家中の家来や一季奉公人、そのほか町・在の奉公稼ぎのものは除く。⑨控えの夫人(ぶにん)も決めておく。⑩役人・頭立(かしらだち)は除く。
藩の触れにしたがって数ヵ村が組合村をつくり、御用夫についての取り決めをしている。布野(ふの)村(柳原)・福島(ふくじま)村(須坂市)・福島新田村(朝陽北屋島)の三ヵ村は、「このたび異国船の儀につき、御上様より鍵役夫人仰せ渡され候御趣意につき、申し談じのうえ左に取り決め候」として、左の箇条などを決めている。藩はもあい金を禁じているが、藩の支給金に村々で増し金を上乗せしなくては夫人の希望者がなかったことがわかる。
一、夫人に出るものへ御上様の手当のほか、一ヵ年に一人につきもあい金五両ずつ差しだすこと。
一、御固め場へ出るものは、右のほか増し金として金五両を差しだすこと。
一、夫人に出たものが病死したようなときは、組合で相談して家が存続できるようにすること。
このほかに、欠け落ちした場合のこと、控え夫人のこと、次回の夫人のことなどを取り決めている。北尾張部村(朝陽)・上高田村(古牧)・北高田村(同)は七年正月、藩の規定のほかにつぎのことを付加した取り決めをしている。①耕作手伝い料として出立月(しゅったつづき)より一ヵ月金一両ずつ、六ヵ月分を渡す。さらに延びたときは組合で相談する。②夫人の欠け落ちがあったら組合村で相談する。③耕作手伝い料は総高割りで用意する。④相談事の世話は三ヵ村で順番にし、雑用は三ヵ村の分割とする。そして、御用夫を出す順番を軒数により一番・二番・三番北高田村、四番上高田村、五番北尾張部村とした。
三輪村・下宇木村・上宇木村(三輪)の三ヵ村でも嘉永七年正月に取り決めをしている。それによると、三輪村五人、下宇木村・上宇木村各一人、さらに控えのものを決めた。三輪村の市右衛門、下宇木村の源兵衛控えの庄兵衛と喜兵衛、上宇木村の弥兵衛は一打(いちうち)(本百姓)である。三輪村の残り四人と控えの四人の八人は聟(むこ)養子・帳下(ちょうした)・借地・借家と肩書きされた非本百姓で、借家が五人と一番多い。最年長は本百姓の市左衛門の四六歳、最年少は市左衛門の控えである末松の二〇歳である。二〇代二人、三〇代四人、四〇代三人となっている。上石川村(篠ノ井)ではなかなか決まらなかったらしく、鬮(くじ)で一三人を決めている(『更級埴科地方誌』③上)。
嘉永七年正月に、松代領村々へ割りつけられたのは五〇〇人である。そのうち九七人が「軍役夫」として登録され、さらにそのなかから一五人が出府することになった。九七人の村はつぎのとおりである。大室(おおむろ)(松代町)一人、東川田(若穂)二人、保科・赤野田(あかんた)新田(同)五人、布施五明(ふせごみょう)本郷(篠ノ井)二人、広田(更北稲里町)三人、上布施(川中島町)一人、町川田(若穂)二人、小出(同)一人、牛島(同)一人、石川(篠ノ井)二人、藤牧(更北稲里町)一人、西寺尾(篠ノ井)三人、杵渕(きねぶち)(同)三人、上小島田(かみおしまだ)(更北小島田町)三人、下氷鉋(しもひがの)(更北稲里町)三人、下真島(更北真島町)三人、大塚西(更北青木島町)一人、東福寺(篠ノ井)五人、小森(同)二人、布施高田(同)四人、下小島田(更北小島田町)二人、上真島(更北真島町)三人、大塚東(更北青木島町)二人、中沢(篠ノ井)一人、下横田(同)二人、御平川(おんべがわ)(同)三人、原(川中島町)四人、会(あい)(篠ノ井)二人、土口(どぐち)(千曲市)三人、粟佐(あわさ)(同)一人、倉科(同)三人、川合(更北真島町)一人、瀬原田(篠ノ井)一人、岩野(松代町)二人、雨宮(あめのみや)(千曲市)三人、生萱(いきがや)(同)二人、森(同)五人、二ッ柳(篠ノ井)五人、矢代(千曲市)一人となっている。
三輪村の市右衛門は「軍夫御用詰め申しつけ、明日四日出立出府」を申し渡されている。嘉永七年二月四日は第二陣で、このとき市右衛門のほかに、新田川合村(芹田)の惣之丞(そうのじょう)、中俣(なかまた)村(柳原)の曽作(そうさく)、大豆島(まめじま)村(大豆島)の次郎八別家良八子の源吉、中御所村(中御所)の儀兵衛、中越(なかごえ)村(吉田)の重次郎借屋団蔵、西和田村(古牧)の八郎治帳下佐七子の利三郎、向八幡(むかいやわた)村(千曲市)の佐吉と平太、須坂村(千曲市)の馬蔵、志川村(千曲市)の伝蔵子の慶五郎の一一人であった。
第一陣の一五人、第二陣の一一人がそのままそろって出立していったかどうかは定かではない。病気で交代している例もみられる。同年の四月東寺尾村の五右衛門は、同じ御用夫組合ではない矢代村の弥太郎が病気ということで交代して出ることになった。五右衛門は馬の口取り手助役(すけやく)として、七月上旬までの勤めで給金金八両一分の約束であった(『村山家文書』千曲市屋代)。
村々へ負担させる御用夫について藩の家老たちは負担の軽減を考えてもいる。第二陣の出立の前日二月三日、家老は郡奉行・道橋奉行・御勘定吟味役につぎのように指示している。「村々御用人足のこと、学校(文武学校)でおびただしく使い、御殿(花の丸御殿)の焼失でもまたまた多くの人足を使い、引きつづいての夫役に一同が疲労している。しばらくのうちはなるたけ雇い人足で取り計らいをしたらどうか。右の件で格段に入料が増し、一昨年来から引きつづいて格別の民力を費やしている。このうえまたまた多くの夫役を申しつけがたい。この節、力を養い休むこともよいのではないかと思われる」。また、同年五月鍵役夫の長期間の足止めについて、代官から家老へ伺い書が出されている。それによると、「正月中鍵役夫役として郡中へ五〇〇人を申し渡した。右の人別のものへ足止めの手当(もあい金)として年に金一両から二両ぐらい差しだしているようすである。多人数を足止めしておくと村々が難渋する。異国船も平穏に帰帆したので、一〇〇人ばかり留め置いて、残りは帰村させたらどうか。もっとも、万一多人数を急に出府させるようなときは差し支えないようにしたいので内々に伺いたい」、とのことであった。伺いは郡奉行の竹村金吾と、さらに家老の河原舎人(とねり)から裁可された。
藩から御用夫を出すよう指示があったときの組合村の動きを、西寺尾村でかいまみることができる(松代町西寺尾 五明悦蔵)。安政二年(一八五五)三月十三日、村役人が藩の「役夫調べ方御役所」へ出向いた。
十四日、役所へ出向くと、御用夫一人を二十一日まで出すこと、さらに一人を四月二十日までに取り決め、役人が召しつれてくることを指示された。さっそく当村組合と御幣川(おんべがわ)組合とで相談して取り決めた。
十五日、右のことで村役人の新蔵が御幣川村へ相談のため出張する。
十六日、東福寺村の文太郎が御用夫に出るむねを聞かされる。
十七日、御幣川村の役人代の惣作が御用夫について相談にくる。
十八日、杵渕村の御用夫の左文太を金七両二分に取り決めたところ、御幣川村から手紙がきて相談する。七両に取り決め直しをする。
十九日、御用夫左文太、役人新蔵殿が御用夫御調べ役所へ出向く。村方増し金四両二分を渡す。
二十一日、左文太が出立したと聞く。
二十四日、御幣川村役人両人が参る。早立ちするもののもあい金について相談する。
御用夫が決められると、御用夫の請書を組合村連名で出さねばならない。安政四年(一八五七)三月布野村・福島村・福島新田村三ヵ村は連名で文右衛門についての請書を出し、もし病気になったら組合村が相談しすぐに代人が勤める、と書いている(『布野共有文書』)。
幕末になると村役人も御用夫を命じられている。安政七年、村山村(柳原)名主の小坂善助、組頭の小坂善之助は、臨時御用夫を仰せつけられ、お手当として金二分を渡されている(大宮市 小坂順子蔵)。夫役のほかにも金銭拠出の負担があった。ペリーが来航した嘉永六年十一月、大豆島村は「先般異国船渡来につき」として、藩へ金五〇両を献上している(『野本家文書』長野市博蔵)。