ペリーが最初に来航した嘉永六年(一八五三)六月三日から六日後の九日、幕府は江戸芝の増上(ぞうじょう)寺に外患(がいかん)防止の祈祷(きとう)をさせている。社寺祈祷には京都の朝廷もかかわってきている。朝廷は嘉永三年全国の七社七寺にはじめて国家安寧の祈祷を命じた。ペリーが再来航した嘉永七年二月、朝廷は幕府の要請をうけて全国の社寺に外患防止の祈祷を命じている。
松代藩と関係が深い小県郡海野宿(東部町)白鳥(しらとり)神社の神主石和安芸(いさわあき)から「今般異国船渡来で御警固役をお引き受けにつき、異船退散の御祈祷と御祓(おはら)いをしたい」と松代藩へ申し出があった。これにたいして松代藩は許可している(『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下同文書による)。
白鳥神社につづいて御祈祷と御祓いの申し出はつぎつぎとなされる。七年二月に入ると、十日牧島村(松代町)神主和田薩摩(さつま)ほか六人が「異賊退散(いぞくたいさん)」の御祈祷をした御祓いを松代藩へ差しだしている。十一日上田領別所(べっしょ)村(上田市別所)の桜井市左衛門が、異国船渡来につき「御武運長久(ごぶうんちょうきゅう)」の祈念を別所村の北向(きたむき)観音でおこない、御札を献上したいと願いでてきた。十九日若宮村(千曲市)八幡宮別当神主松田豊前(ぶぜん)ほか神主一六人、神子(みこ)一人が「異賊退散」の御祈祷札を差しだした。二十九日保科村(若穂)の神主竹内陸奥(むつ)ほか一九人、柴村(松代町)の和合院ほか修験(しゅげん)四四人がやはり「異賊退散」の御祈祷札を藩へ出している。
文久三年(一八六三)三月二十六日、赤田村(信更町)の真言宗専照(せんしょう)寺は松代の清水寺(せいすいじ)へ問い合わせのうえ、末寺といっしょに「異国船渡来に付き」として御祈祷をしている。また、領内里方寺院一同は伺い書を藩へ差しだし、西条村(松代町)開善寺において御祈祷を勤行(ごんぎょう)する。別に領内山中(さんちゅう)の寺院は赤田村(信更町)の専照寺に寄り合い、「殿様御武運長久」の御祈祷を四月一日から二夜三日おこないたいむねの口上書を藩へ出している。このとき専照寺へ集まった寺院は、里穂刈(さとほかり)村(信州新町)の安光寺、上越道(かみこえどう)村(信州新町)の玉泉寺、中牧村(大岡村)高峯(こうぶ)寺、田野口村(信更町)密蔵寺、念仏寺村(七二会)正法寺の五寺院で、高山(こうさん)寺・金別寺・長勝(ちょうしょう)寺・高巌(こうがん)寺はそれぞれの寺院でおこなうこととした。
安政二年三月、幕府は海岸警備の大砲・小銃鋳造のため、諸国寺院の梵鐘(ぼんしょう)の供出を命じた。ただし末寺をたばねる本寺と時の鐘に用いる分は除くとしている。塩崎知行所はこれをうけて、村々へ触れを出した。それにたいして塩崎村(篠ノ井)の長谷寺(はせでら)は、信濃の寺院元であり、洪水や火事など非常のときに用いるからとして容赦を願いでている。同年十一月、権堂村(鶴賀権堂町)は松代藩御預り役所へ「梵鐘改めの届け書」を出している(『県史』⑦一四五六)。同村の普斎(ふさい)寺、明行(みょうぎょう)寺地中の教円寺・往生院・地蔵堂・玄樗斎(げんちょさい)には「撞鐘(つきがね)」はなく、外法(そとのり)七寸から一尺五寸のものがあると届けている。