嘉永七年(安政元年、一八五四)三月、ペリーと日米和親条約(神奈川条約)を締結した幕府は、その後イギリス・ロシア・オランダとも和親条約を結び、外国船の寄港と薪(たきぎ)・水などの補給のために下田・箱館・長崎を開港したが、なお、自由な通商貿易を認めてはいなかった。安政三年(一八五六)に来日した日本駐在総領事ハリスが、幕府と執拗(しつよう)に交渉した結果、同五年六月日米修好通商条約が締結される。幕府は朝廷の条約承認拒否のために条約調印を延期していたが、岩瀬忠震(ただなり)や老中であった上田藩主松平忠固(ただかた)が朝廷にたいする幕府の主体性を確保するとともに、外交は幕府の専断事項だとして勅許不要論を主張し条約調印に踏みきった。忠固は調印の翌々日、老中首席の堀田正睦(まさよし)とともに江戸城への登城を禁止され、同月二十三日には老中職を罷免(ひめん)された。これを機に攘夷派と佐幕派の対立が先鋭化し、同年九月からの安政の大獄を皮切りに騒然とした幕末政局がはじまる。
幕府は同年七月にオランダ・ロシア・イギリス、九月にフランスとも同様な通商条約を締結した。いわゆる安政五ヵ国条約である。通商条約の箇条数は国ごとに異なるが、おもな事項はつぎのとおりである。①相互に首都に公使を、開港場に領事を置く。②神奈川(横浜)・長崎・箱館の三港を一八五九年七月四日(安政六年六月五日)、新潟を一八六〇年一月、兵庫を一八六三年一月から開港し、外国人の居留を認める。③江戸を一八六二年一月に、大坂を一八六三年一月に開市する。④貿易は役人の干渉をうけることなく、自由に品物の売買ができるようにする。⑤関税率は双方で協定し、条約で定める。⑥外国の貨幣は、日本の貨幣と同種同量で通用させる。⑦日本で罪を犯した外国人は、外国領事の審判をうけ、有罪の場合は外国の法律で領事が処罰する。⑧条約を締結している国のひとつが、日本から新たな権利を獲得したときは、ただちに条約締結国のすべてに適用される。⑤⑦⑧の関税率の協定制度、領事裁判権、最恵国待遇の三ヵ条は、不平等条約の根幹をなすものであった。
この条約により、安政六年(一八五九)六月五日にまず神奈川(横浜)・長崎・箱館の三港が開港された。なかでも江戸に近い横浜が貿易の中心となった。輸出品は、生糸・茶・蚕卵紙・綿花・昆布・干魚・油・蝋(ろう)・人参などほとんどが原料品であった。いっぽう、輸入品は、綿織物・毛織物・砂糖・武器・艦船などの製品であった。貿易額は、年間をとおして貿易がおこなわれるようになった万延元年(一八六〇)に輸出四七一万ドル、輸入一六六万ドルであったものが、慶応元年(一八六五)には輸出一八四九万ドル、輸入一五一四万ドルとなり、輸出は約四倍、輸入は約九倍、貿易総額は約五倍に伸びた。
おもな輸出品である生糸の好調原因は、清(しん)(中国)の内乱によるヨーロッパ諸国の輸入先の振りかえと、ヨーロッパ(フランス・イタリア)での蚕の病気(微粒子病)による蚕種・生糸不足が、日本への需要を増大させたことにある。日本から輸出された生糸が清やヨーロッパ産の生糸にくらべて高品質であることが確認されると、ヨーロッパ市場では日本の生糸にたいする需要がさらに高まり、大量の生糸が日本各地から横浜に運ばれた。生糸の横浜価格は、当初ロンドンなどの価格の半値くらいであったが、まもなく八〇パーセント台に上昇した。
新開地横浜には、一攫千金(いっかくせんきん)を夢見た多数の日本人商人が集まった。貿易商人は、外国商館との取り引き業務の内容により、輸出品を扱う売り込み商と輸入品を扱う引き取り商に区分された。表1-1は、慶応元年(一八六五)横浜五丁目に居住する人びとの出身国を示したものである。これによると、江戸についで信州から四一人もの人が進出していることがわかる。その内訳は表1-2のとおりである。信州出身の商人では、伊那郡別府(べっぷ)村(飯田市)の生糸商人中島屋六郎右衛門が、安政六年十一月に早くも横浜への生糸売り込みをはかっている。このほか、林村(下伊那郡豊丘村)の大原屋権蔵、「天下の糸平(いとへい)」の異名をとることになる飯田町(飯田市)の田中平八、同町の升屋久右衛門、下山(しもやま)村(飯田市)の山村屋宗十郎などが横浜交易に乗りだしている。諏訪では岡谷村(岡谷市)の林善左衛門が横浜売り込みをはかった。
上田藩では、藩みずからが物産会所をとおして横浜交易に乗りだしている。安政三年、江戸方面へ移出されるすべての国産品の輸送・販売を一手ににぎる藩の物産会所を設置し、同六年に上州吾妻(あがつま)郡長井村(群馬県新治村)出身の横浜売り込み商中居屋重兵衛に物産取り扱いを委任して、開港公布前から横浜交易に着手している。中居屋は開港直後の段階でもっとも大量の生糸を外国商に売りこんだ商人である。彼は横浜移住前には江戸で火薬の研究に従事し、多くの蘭学者とも交流があった。その一人に佐久間象山の名もあげられている(『維新の信州人』)。
飯田藩では文久三年(一八六三)に生糸の独占的流通経路を定めた物産会所を設けた。松代藩でも文久三年に物産会所を設置した。この会所は、上郷(かみごう)の養蚕・製糸地帯と善光寺平の木綿生産地帯を中心に三〇ヵ所以上設置された。ここでは取り引き者のすべてが鑑札をうけ、冥加金(みょうがきん)を上納する規定であり、取り引き商品にはかならず改め所で改印(あらためいん)をうける規定があった。更級郡羽尾(はねお)村(千曲市)出身の大谷幸蔵(おおたにこうぞう)は、糸繭(いとまゆ)・蚕種・絹紬(きぬつむぎ)の仲買人となり、松代藩の物産会所の頭取(とうどり)を勤めるいっぽう、横浜の野沢屋惣兵衛らと提携(ていけい)して領内の生糸・蚕種を積極的に集荷して巨利を得た。時期はくだるが明治前期に現長野市域からは生糸・蚕種などを中心に表2のものが移出や輸出された。信州からの生糸および蚕種が好評なゆえんはその品質にもあった。
ところで、生糸・絹織物・綿糸・油などは、従来から国内消費のための商品であり、すでに江戸・大坂を中心とする問屋制度による流通機構が成立していた。そこに、貿易商人の資本を背景とした横浜の売り込み商は、蚕糸業地の荷主(糸商人)から生糸を預かり、直接横浜へ運び外国商館に販売した。幕府は江戸問屋の保護と貿易利益を独占しようと、万延元年(一八六〇)に雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服・生糸を各産地から横浜へ直送することを禁じ、江戸問屋経由を命じる「五品江戸廻送令(ごしなえどかいそうれい)」を発した。これは、自由貿易という通商条約の規定にそむくとして、外国商人・横浜売り込み商・在方荷主らの反発をかい、幕府内部の紛糾もあってその効果は得られないままに終わった。この開港による流通機構の変化が物の流れをにぶらせ、物価騰貴のひとつの要因となった。
開港後の物価上昇の主因は、開港後に日本の金銀比価を国際比価にあわせ、金貨流失防止をはかるために断行された貨幣改鋳(かいちゅう)にあった。当時国際的な金と銀の交換比率は一対一五であったが、日本国内の金銀比価は一対五であった。そのため、外国商人はメキシコ銀を一分銀にかえてから小判にかえ、それを国外にもちだしメキシコ銀に替えるだけで、元手の三倍の銀を手にすることができた。このため、幕府は、日本の金銀比価と国際比価との開きを是正するために安政二朱銀を鋳造したが、これは外国からの抗議によって失敗し、そのあと、万延元年(一八六〇)、天保小判を三両一分二朱、同一分判を三分一朱で通用させる幕令を発した。この結果、日本の金銀比価は国際比価に平準化され、金の国外流失はやんだ。しかし、同時に貿易でもたらされた大量の洋銀(メキシコドル)を鋳潰(いつぶ)して金貨の量目を三分の一に落とす改鋳を実施した。とくに万延二分金(金含有率は二二パーセントにすぎない)という新貨幣の大量発行は、幕府の歳入の半分を占めるほどの膨大な改鋳益を生み、幕府の財政支出を増加させたが、そのことがいっそうのインフレをもたらした。この改鋳によって通貨量は約三倍に増加し、物価はいちじるしく高騰することになった。
貿易の開始は、流通機構の変化、輸出品である生糸・蝋などの値上がり、輸入品との競合品の価格低下による価格革命、国内需要の不均衡、通貨量の増大によるインフレーション、幕末期の政治不安、社会不安から深刻な物価騰貴をもたらした(新保博『近代日本経済史』)。大坂では、米の価格が安政期から元治(げんじ)元年(一八六四)で二倍に、慶応三年(一八六七)には一〇倍にはねあがり、その他の卸売物価も万延元年から慶応三年までに三倍に上昇した。江戸では安政六年から慶応三年にいたる八年間に米は三・七倍、水油は四倍、繰綿(くりわた)は四・三倍に上昇し、安政六年の諸値段を一〇〇とすると、慶応三年の平均指数は二九七と、大坂同様ほぼ三倍にはねあがった。とくに生糸・茶・水油・雑穀の価格上昇は人びとの生活に大きな影響をあたえた。水油の場合、万延元年の一年間に四四〇トン以上が輸出され、開港いらい半年で江戸の一年間の消費量の約二割が海外に流出した。小麦(粉)や大豆などの雑穀は、同じ万延元年の一年間に四六〇〇トン以上が輸出され、江戸の蕎麦(そば)屋が小麦不足を幕府へ訴えたほどであった。
写真8は、狂画や諷刺画で有名な河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)が幕末の物価騰貴を風刺した錦絵「一寸(ちょっと)見なんしことしの新ぱん」である。これは、暁斎が元治二年、高井郡小布施村(小布施町)の豪商高井三九郎(鴻山(こうざん))宅に滞在中に描いた肉筆画で、暁斎はこれをもとに、慶応三年三月に江戸築地大黒屋から同名の錦絵を刊行したものである。図の右がわは日光男体山(なんたいざん)・上州妙義山・信濃浅間山、さらに須弥山(しゅみせん)・筑波山(つくばさん)、行者の下駄、天狗の鼻といったもともと「高いもの」を描く。これと対応して、最近の物価上昇を富士登山の人びとにたとえ、顔のなかに上昇した物価名を入れたものである。絶頂にあるのは米、ついで薪・呉服・糸・茶・餅・紙・湯銭・酒などとつづいている。
物価高は、生活物資を貨幣で調達しなければならなかった零細百姓・都市細民・下級武士に大きな打撃となった。さらに、奉公人の給金や日雇い賃銭は、上昇はしたものの、米価や物価の急騰には遠くおよばなかった。このため各地で世直(よなお)しの一揆(いっき)や打ちこわしがおこった。表3は、幕末期の一揆や都市騒擾(そうじょう)などの発生件数を年号別にみたものである。一揆や騒擾は、件数のみの表示でその中味を吟味したものではないが、おおよその傾向は推察可能である。これをみると、全国的には安政開港にともなう全国的な経済変動による矛盾の激化が、一揆や都市騒擾などの件数を徐々に上昇させていることがわかる。
全国の一揆発生件数のもっとも多い慶応二年は、開港以後の恒常的な物価騰貴が、この時点で一挙に上昇したことが直接的な原因となっているが、第二次長州戦争による領民の負担増や不作によるものなど、さまざまな要因が重なって噴出したものである。大坂周辺では、第二次長州戦争で一五代将軍慶喜(よしのぶ)が大坂在城中の五月に各地で打ちこわしがはじまり、ついに十三日には大坂市中全域で安売りを拒否した米屋や高利貸が軒並み打ちこわされ、被害戸数は九〇〇軒に達した。打ちこわしは五月下旬には江戸にも波及し、米屋や貿易商人が対象とされ、六月初旬まで荒れ狂い、町奉行所の門外には「御政治売り切れ申し候」との張札が張られた。
都市における民衆の打ちこわしと並行して、村々においても全国的に一揆が頻発した。とくに慶応二年六月に起こった武蔵西北部の一揆(武州世直し一揆)と奥州信夫(しのぶ)・伊達(だて)二郡の一揆(信達(しんだつ)一揆)は、大規模な世直し一揆に発展した。武州世直し一揆の参加者は、武蔵(むさし)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・相模(さがみ)・常陸(ひたち)の関東五ヵ国で一〇万人余といわれた。彼らは「打毀(うちこわし)連中」を結成し、米価や質屋の利息引き下げを要求するとともに、幕府と結びついて生糸を買い占めていた輸出生糸商人たちを真っ先に打ちこわしの対象とした。打ちこわしにあった米屋・金貸し・貿易商人は武蔵・上野の両国だけで四五〇軒余に達した。信達一揆では生糸・蚕種改印制による新たな課税の撤回、米価・利息の引き下げが要求され、改印制導入の手先となった役人・貿易商・特権商人が真っ先に打ちこわしをうけ、一七万人以上が加わり、ついに統制撤廃をかちとった。
これらの一揆や都市騒擾では「世直り」ということばが使われ、これは同時に「世均(よなら)し」でもあった。この幕末期の打ちこわしや世直し一揆は、「窮民救済(きゅうみんきゅうさい)」という普遍的な目標を掲げた。打ちこわしのさいに、民衆が米穀を持ちだし、撒(ま)き散らすのは、買い占めなど不正な商業行為にたいする社会的な制裁の意味があった。
このように、開港は日本の経済に大きな影響をあたえたが、そのいっぽうで外国からはさまざまな文物が日本にもたらされた。アメリカからの宣教師で医師のヘボンは、洋学や医術の普及、「ヘボン式」とよばれる口ーマ字の綴り方をはじめ、日本最初の和英辞典出版など、幅広い分野に足跡を残した。西洋の技術者・職人は造船・土木・写真などを伝えた。さらに、パン・ビールなどの食品、こうもり傘・石鹸(せっけん)などの日用品も普及しはじめた。
断片的ではあるが、長野市域の開港後の庶民の出納帳から、輸入品と思われるものを拾ってみよう。布野村(柳原)の市川家では、元治二年(慶応元年、一八六五)の「小夫出入覚帳(こづかいでいりおぼえちょう)」でアメリカ砂糖購入に銀一匁八分(ふん)の出費を記録している。また、四ッ屋村(川中島町)の堰守(せぎもり)中沢弥七郎は慶応二年の「諸事控」によると、マグネシヤ(マグネシウム)を二〇〇文購入している。以後、慶応三年、アラビア(不明)一〇〇文、サントニイネ(サントニーネ、回虫駆除剤)一〇〇文。明治二年(一八六九)アラビア二〇〇文、呉絽服(ごろふく)(九尺幅二反)七匁三分、マグネシヤ二〇〇文。明治三年にはシャボン二朱を出費している。呉絽服とは、ゴロフクレンの略で、舶来(はくらい)の荒い粗末な毛織物をさした。マグネシヤ・サントニイネなどは特殊なものと思われるが、一般には綿織物・綿糸・毛織物などが庶民には早く浸透したと思われる。明治三年、中沢家では牛肉(六〇〇匁)を一分二朱で購入、牛肉の消費など西洋の文化は確実に浸透してきていた。
いっぽう、幕府や諸藩は幕末の軍備拡張の傾向を反映し、艦船・武器などの軍需品の輸入を急増させた。大量の武器輸入のための資金調達に、幕府・諸藩とも苦労し、藩内の産物を輸出して資金を獲得する試みが横浜でも長崎でも多くみられた。こうしたなか、外国商人から借金をする藩も増えていった。外国商人への負債は廃藩置県にさいしての調査の時点で、三七藩、四〇〇万円余にのぼった。その圧倒的部分が明治初年のものであり、慶応四年(明治元年、一八六八)の戊辰(ぼしん)戦争以降の諸藩財政の窮迫ぶりをうかがわせる。信濃では唯一松代藩のみが五六一六円の外債を負った。松代藩では、慶応二年十月にフランス式元込(もとごめ)銃・馬上銃などを横浜で購入した記録がある(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。松代県廃止のさい、政府役人に引き渡された武器台帳には表4のような洋式軍備がみられた。