北信諸領の米相場

809 ~ 817

図1は幕末期、松代藩御立(おたて)相場(年貢換金公定相場)と善光寺町・栗田村(幕府領・戸隠山神領の相給)の米相場を折れ線グラフで示したものである。グラフは、金一〇両にたいして購入できる籾の俵数をあらわし、米が高くなるほど金で買える米の俵数が減り、逆に米の値段が下がると購入できる俵数が増える。米価は高下を繰り返しながら、ぐんぐんと高騰しているようすがわかる。とくに安政六年(一八五九)七月の貿易開始以降、明治四年(一八七一)に向かって急速に値段が上がっている。松代藩御立相場でみると、安政六年の二八俵にたいして、明治四年の四・五俵は、約六倍に達したことになる。天保飢饉(ききん)のピークとされる天保七年(一八三六)とくらべても四・九倍とこの時期の奔騰(ほんとう)ぶりが知られる。善光寺領では、安政六年の二三俵にたいし、慶応元年(一八六五)は一二・五俵と一・八倍であった。


図1 北信諸領の米相場(松代藩相場は「年々大小并米相場附」西条小学校蔵、「御領内年々御立値段往来」笹平区有より作成、善光寺町相場は「善光寺町穀屋行司等米相場書上留」『小野家日記』、栗田村相場は「妻科村・栗田村田方小作引籾相場」藤井一章蔵より作成)

 米の相場は、領主・領民の最大の関心事である年貢の納入問題と大きくかかわっていた。そこで、松代の米相場決定のプロセスと開港後の特徴からみていこう(古川貞雄「松代藩月割上納制の仕法替えについて」)。松代藩の公定相場、いわゆる御立相場は、年貢・諸小役の籾を代金へと換算するためのもので、その年の立冬(十月下旬から十一月)ころの市場相場をもとに決定される。市場相場は、松代城下町の米相場を基礎としながら、近隣所領の城下町・市立て村の米相場を取りこむ。参考とされる諸領の相場を「所々相場」とよぶが、その場所は上田(上田市)・稲荷山(千曲市)・須坂(須坂市)・善光寺町(長野市)・新町(信州新町)・小布施村(小布施町)である。これらの相場は上田町相場は鼠宿(ねずみじゅく)村(坂城町)、稲荷山相場は桑原村(千曲市)、須坂町相場は福島(ふくじま)村(須坂市)、善光寺町相場は後町村(長野市)の各村々から報告される。

 文久二年(一八六二)を例にとると、御立値段は以下のように決められていった。最初に真籾・覆籾(こぼれもみ)の城下の平均二一俵二斗五升九合にたいし、二〇俵・二一俵・二二俵・二三俵・二四俵・二五俵の御立値段案が示され、過去の比較すべき数値として天保八年(城下二一俵二斗余・所々二〇俵三斗余)、同九年(城下二三俵二斗余・所々二三俵二斗余)、弘化二年(城下二二俵二斗余・所々二三俵余)、安政七年(城下二〇俵二斗余・所々一九俵四斗余)、昨年(城下二一俵二斗余・所々二〇俵四斗余)、本年(城下二一俵二斗余・所々一九俵三斗余)の相場平均を参考にあげている。いずれも大きな凶作の年である。

 この過去の平均に、さらに以下の点を考慮する。①山中の麦作は雪腐れで、麻作は風雨で被害がある。②煤鼻川(すすばながわ)(裾花川)がまれの出水で川辺を中心に損地が多い。③千曲川も出水し田は水腐れの村々がある。反対に田畑干損の村も五、六ヵ村(中越村など)ある。しかしながら、諸作物の出来はよく、手取りの多い村が多いが、夏から麻疹(はしか)がはやり、そのことで出費がかさむため、本年は御立相場を二三俵としたい、と郡奉行が家老に上申して認められている。このように、郡奉行以下郡方諸役は、民情にきわめて敏感で、とくに「気向き」(民心の動向)に不穏の気配がないか、「金子出方」(貨幣の流通)は潤沢かなどに細心の配慮をおこなっている。

 開港後の米価の異常な騰貴は、宝暦八年(一七五八)以降継続されてきた月割り上納制の仕法変更を決断させた。文久二年、郡奉行はほんらい格別な災害・不作がない限り、御立相場にたいして七月までは三俵安、八・九月は一俵安とする原則を、七月までは一俵半安、八・九月は半俵安と変更したいと伺った。その原因として、ここ数年のあいだに追々と金銀は安くなり、金利は一割前後に低下した。そのうえ、近年米穀は高騰して、往時の御手充(おてあて)では実情に合わない。近年藩御用繁多(ごようはんた)、勝手向き逼迫(ひっぱく)の折、これまでの月割り上納制の仕法では、金利からしても殿様の御不益になってしまう、というのである。宝暦年間(一七五一~六四)の金一〇両に四〇俵前後から、この文久二年には二三俵にまで高値になっているのである。

 この割合比は、慶応二年になると、さらに改定が加えられる。郡奉行は、御立相場の何俵安という割り引き方式を放棄して、御立相場の高下にかかわりなく、月割り上納金高の一割の利分にしたいという提案をしたのである。慶応二年の相場は九俵とさらに高値になっており、御勘定所元〆(もとじめ)役のいうとおり、もはや先納分を何俵も割り引くことは実質的に不可能なほど米価が高騰していたのである。けっきょく、このことも家老の裁可を得て実施された。このように、金利の大幅な低下と米価のいちじるしい高騰によって、一〇〇年にわたってつづいてきた金利分御手充方式が崩れた。

 つぎに、善光寺町の米相場をみよう。善光寺町の相場は、横沢町・東町・西町の穀行司(こくぎょうじ)三方が相談し、大勧進代官に上申して決められた。ときには岩石町穀問屋も交えた四方でも相談している。米の相場は、白米は一両につき何石、籾は一〇両につき何俵(五斗俵)、小売り白米は一〇〇文につき何升といった表示方法で示された。つぎは安政三年(一八五六)正月の相場の書き上げである(『市誌』⑬三五七)。

     覚

  一上籾(じょうもみ)三斗摺(ずり)   金十両につき三十八俵

    右玄米揚り金一両につき一石一斗四升

    白米に仕立て一石二升

  一下籾二斗七升摺り 金十両につき四十三俵

    右玄米揚り金一両につき一石一斗六升

    白米に仕立て一石六升

  一白米百文につき一升五合

   右の通り、今日市相場書き上げ奉り候処相違御座なく候、以上、


                岩石町 穀問屋 甚左衛門

                桜小路 穀屋行司 喜兵衛

    安政三年辰年正月

                東町 同断 佐右衛門

                西町 同断 彦右衛門

     御役所


 決まった相場は回状で町内に触れられた。米の市場価格は同一年内でも絶えず変動した。図2は、慶応三年(一八六七)一年間の善光寺町の米と大豆の相場の変遷をみたものである。これによると、秋の収穫時期には米の値段が下がり、正月から三月の冬の時期は上がっている。善光寺町では、米相場抑制の目的で大勧進役所が米相場の書き上げを命じていた。


図2 慶応3年(1867)善光寺町の米相場の変化
(『大鈴木家文書』(長野市博寄託)により作成)

 つぎに、幕府領の米価をみてみよう。幕府領では、年貢石代納(こくだいのう)(年貢米を金に換算して納める)がおこなわれていた(『市誌③』三章二節参照)。北信では、高井郡と水内郡下郷(しもごう)は飯山町・須坂町、水内郡上郷(かみごう)は善光寺町・須坂町、埴科・更級両郡は松代町の米相場を基礎とした。米価が高騰し、高値で石代値段が決められると、百姓にとっては死活問題であったため、そのつど石代の引き下げ、すなわち「安石代(やすこくだい)」願いが出された。文久三年、中之条代官所支配の荒木村・千田(せんだ)村(芹田)、富竹村・金箱村(古里)など五〇ヵ村は、米価高騰のあおりをうけ、石代相場が格外に高値になり、年貢上納が困難であることを代官所に訴願した。その結果慶応元年、代官所は文久三年の年貢を「御救い石代」とし、過去五年間の平均値段の二斗安とすることにし村々に申し渡している(『市誌』⑬一七〇)。

 米価が高騰すると、穀留めなどにより米の流通も滞(とどこお)りがちになった。文久三年、千田村(幕府領と松代領の相給)の穀商新助・奥右衛門は、穀物が品薄(しなうす)だから他所へは売ってはならないとするお触れも出されており、米を買い入れることができず千田村では商売にならないとし、川北(かわきた)(犀川北)の村々にも米を融通してくれるよう、川北穀行司の後町村四郎兵衛をとおして松代藩郡奉行に訴えている(「御勘定所元〆日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。この年の十月、川中島内の穀屋ならびに村役人は藩役人から丹波島村によびだされ、穀類の占め買い、占め売りをいっさいしないよう申し付けられている。また、万延元年(一八六〇)、善光寺領箱清水村でも「このごろ諸穀物がだんだん高値になり、近隣やその他から善光寺領に入りこみ、穀物を買い、これによっていよいよ値段が高騰している。松代領内では出穀にたいしきびしい制限を加えている。寺領では、天保の飢饉いらい格別に融通をうけ、これまでどおり寺領のものはむろん、松代領内でも穀物を買い入れることができるが、他所への売り出しは堅く禁止されている。心得違いの者がないよう申しふくめるように」と大勧進代官から申し渡され、衣類と振る舞い・葬送(そうそう)などの簡素化に努めるむねの請書(うけしょ)を出している(箱清水 内田雅雄蔵)。

 こうしたなか、穀屋仲間は文久三年にあいついで仲間規定の遵守(じゅんしゅ)をおもな内容とする規定書を取りかわしている。善光寺町では、「米穀の儀は人命にかかわる品ゆえ、仲間一同、公儀からの仰せをよくわきまえること」とし、「弘化四年(一八四七)の地震による大災害後、今一度規律の取り極めを再確認する」として、左の条目の遵守を決めている(『県史』⑦一三四九)。

 ①穀物の値段は陽気を考慮して、四方行司とよく相談して四方行司から通達させるようにする。ただし、穀物小売の値段は銘々が下札(さげふだ)にして表示し、値段が一定になるようにする。②米穀が品薄になって高値になったときは、人びとに疑念をいだかせるような心得違いがないように気をつける。③在方の穀屋から玄米を買うときは、水車屋馬士に運ばせない。たとえ町続きであっても水車屋馬士から売り買いはしない。④水車屋仲間ではない水車屋へは搗き挽(つきひ)きの荷を出さない。⑤穀商いをはじめたいものは、行司に頼んで仲間に入る必要がある。仲間入りの披露には仲間と水車屋行司を招く。⑥せり売り買いはしない。⑦市神講(いちがみこう)は毎月組々にておこない集会をもつ。⑧仲間で臨時の相談がある場合には、行司ならびに差添(さしそえ)が取り計らう。⑨仲間内で臨時に差しもつれがあり、お金がかかることが生じたら、費用については相談して割りふること。

 こうした仲間規定の再確認が必要とされた背景には、米相場の高騰に乗じて、仲間以外のものが、鑑札なしに勝手に穀物商売をして稼ぐという事情もあった。

 こうした米価高騰で米を買えないで苦しむ人びとにたいし、領主は米穀の安売りをおこなった。とくに善光寺町のように、百姓身分ではあるが、じっさいには土地をもたず、農業に従事しないものが多い町場では、物価の高騰、とくに米価の高騰は死活問題であった。慶応三年、善光寺桜小路(桜枝町)の茂左衛門は、「近年米価が追いおい高値になり、とくにこの秋以降は穀物類は底をつき、みな難渋している。今年は豊作で、しだいに値段も下がるはずであるが、一部の人が米を貯えこみ、値段も下がらないので、安穀売りとして囲い米から三斗摺(ず)りの上籾一〇〇石を拝借し、返納のときには籾子(もみこ)二〇俵増しで上納したい」と寺役所に申しでた(箱清水 内田雅雄蔵)。明治二年(一八六九)、椎谷領問御所村(鶴賀問御所町)では、米俵高騰で難渋する四九九人に安米を販売した。これは、「夏いらい天候不順で諸作物は実らず、諸方で穀留めがおこなわれ、米穀値段が上がるなか、贋(にせ)二分金流入により二分金が不通用になり逼迫(ひっぱく)した状態である。上田表をはじめ諸方では騒動も起き、当村でも不穏な動きがある。これをおさえるため穀屋久保田新兵衛から、同人所持の米を摺り立て御上様に差し出し、改めのうえ村役人や組頭をとおして八月二十七日から十月一日まで安値段で売り渡」したものであった(『県史』⑦二二八八)。当時の善光寺町相場は、越後白米が金一両につき八升、地米が七升五合であったが、白米三九石四斗二升を村内七組三七三人と隣町難渋者など一二六人の合わせて四九九人に、金一両につき一斗二升五合(地米にたいしては六割安)の安値で販売した。

 米価が高騰するなか、慶応二年六月、小森沢村(篠ノ井東福寺)の更級久太郎方で騒動が起こった。この騒動は、何者かが久太郎宅に、「祖先法事につき、白米百文につき一升、一人前百文ずつ売り候」と札を立てたためはじまる。この年の善光寺町では一〇〇文に米二合五勺が相場だったから、平常の四倍買えると書かれたのである。このため、近辺はもとより、善光寺町や戸倉・坂木辺からも人が集まり、大群衆となった。松代藩では郡方手付(てつけ)同心六人を派遣したが、群集した一部の人びとが土蔵を打ち破り、火をつけた。夜に入り家のものは鉄砲を打ち出し、子ども一人が即死、怪我人が多数出た。騒ぎの渦中、六人ほどが中之条代官所の牢(ろう)に入れられる騒ぎとなった。安売りの札を立てたのは今里村の人とのうわさもあり、三人は捕らえられ牢に入れられたという(関保男「荒川九郎日記(抄)」)。

 こうして、一部に不穏な動きがあったものの、大きな騒動にまでいたらなかった背景には、先の善光寺桜小路の茂左衛門のことばにあるとおり、天明飢饉いらい各地で創設され蓄積されてきていた囲い穀や社倉が大いに役立ったからだと考えられる。また、領主役所、村役人、穀屋仲間などそれぞれが米価の動向にたいして慎重に気配りしていたことによると思われる。