嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督の率いるアメリカ艦隊の黒船四隻が浦賀沖に来航し(本章一節参照)、開国勧告の国書を幕府に強引(ごういん)に手渡した。翌年のペリー再来航にそなえて、主席老中阿部正弘(まさひろ)はいままで政治の現実から遠ざけられていた朝廷にこのことを奏聞(そうもん)し、また諸大名や将軍目見(めみ)え以上の幕臣にもアメリカ国書を公開して意見を求めた。これらのことがきっかけとなって、幕府の政治に批判的な意見がわきおこり、やがて公家や諸藩の藩士のなかで尊王攘夷派(そんのうじょういは)といわれるグループが形成されていった。かれらは天皇への崇敬(すうけい)と開国反対をスローガンとする一派で、藩意識を乗りこえようとしていた諸藩の下級武士や脱藩藩士が多く、主として京都を活躍の舞台とした。これにたいして、従来の幕府を中心とする政治を擁護(ようご)しようとする佐幕(さばく)派もおのずと結成されていったが、このグループはやがて公武合体運動を推進していくことになる。
安政五年(一八五八)、大老井伊直弼(いいなおすけ)は孝明天皇の許しのないまま日米通商条約に調印して開国し、さらに十三代将軍家慶(いえよし)の後継(あとつ)ぎをだれにするかで大きく意見がわかれた将軍継嗣(けいし)問題でも紀伊徳川家の慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を一四代将軍に就任させるなど独断専行が目立った。これら一連の動きに尊王攘夷派はするどく反発したが、これにたいして大老は安政五年から翌年にかけてのいわゆる安政の大獄(たいごく)で、反対派の公家・大名・武士などを大弾圧した。これにたいし、水戸浪士らは万延元年(安政七年、一八六〇)三月の桃の節供(せっく)の日、井伊を桜田門外で暗殺した(桜田門外の変)。これにより幕府権力は一時衰退せざるをえなかったが、井伊のあとをうけて老中に就任した久世広周(ぐぜひろちか)と安藤信正は、冷えきった朝幕関係を改善し、幕府の権威をなんとか回復させようとして、仁孝(にんこう)天皇の第八皇女で、孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を一四代将軍家茂の夫人に迎えようとはかった。孝明天皇ははじめ、和宮にはすでに有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王という許婚(いいなずけ)がおり、本人も固く拒否しており、夷人(いじん)のいる遠い関東の地に嫁がせることは忍びないとして反対していたが、幕府の再三再四の懇願により和宮を説得し、安政五ヵ国条約の破棄か攘夷決行を条件に、同年十月には正式に和宮の降嫁(こうか)が決定した。
和宮一行の江戸下りの道は、翌文久元年(万延二年)四月には正式に中山道経由と決定し、同年八月には通行の日程・宿泊地などが発表され、老中久世広周から諸大名に道中筋の警衛(けいえい)が割りあてられた。一行の総人数は、京都がたが和宮・実母観行院(かんぎょういん)・大納言中山忠能(ただよし)以下一万人、江戸がたが京都所司代酒井忠義の総御用掛り以下一万五〇〇〇人の随員、通し雇い人足が四〇〇〇人にのぼった。このように多人数となったため、一行が一宿を通過するには前々日・前日・当日・翌日と都合四日を必要とした(『県史通史』⑥)。
一行の江戸下りが中山道と決定したことが、信濃の諸藩や百姓に大きな負担と犠牲を強いることになった。