老中久世広周は、松代藩にたいしても、「和宮様御下向の節、御道中筋御輿(おこし)御先・御跡御警衛」を命じ、その区間を「和田宿より沓掛(くつかけ)宿迄」とした(「和宮様御下向ニ付中山道より沓掛宿迄御先・御跡御警衛一件」『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下同文書による)。
和宮の御輿の先・跡の御警衛の範囲は、この松代藩の和田宿(小県郡和田村)から沓掛宿(北佐久郡軽井沢町)までをふくめて、つぎのように決定した。大津(滋賀県大津市)から愛知川(えちがわ)宿(同県愛知川町)までを石川主殿頭(とのものかみ)(伊勢亀山藩)、愛知川宿から赤坂宿(大垣市)までを井伊掃部頭(かもんのかみ)(彦根藩)、赤坂宿から鵜沼(うぬま)宿(岐阜県各務原市)までを戸田采女正(うねめのしょう)(美濃大垣藩)、鵜沼宿から本山(もとやま)宿(塩尻市)までを尾張大納言(尾張藩)、本山宿から和田宿までを松平与十郎(上田藩)と内藤駿河守(するがのかみ)(高遠藩)、和田宿から沓掛宿までを真田信濃守(松代藩)、沓掛宿から坂本宿(群馬県松井田町)までを松平摂津守(せっつのかみ)(上野小幡(こうずけおばた)藩)と酒井下野守(しもつけのかみ)(同伊勢崎藩)、坂本宿から本庄宿(埼玉県本庄市)までを松平恭三郎(上野吉井藩)、本庄宿から桶川(おけがわ)宿(同県桶川市)までを松平越中守(えっちゅうのかみ)(伊勢桑名藩)、桶川宿から江戸城内御三卿(ごさんきょう)の清水家屋敷までを文久三年六月から老中になる酒井雅楽頭(うたのかみ)(姫路藩)である。
そのさい、幕府は「和宮様御下向の節、御先・御跡御固めの者心得方」として、つぎの三ヵ条を担当の諸藩に命じている。①和宮が宿泊する旅館前後へ屯所(とんじょ)を設置して昼夜勤番をいたすこと。②御供の前後で警衛する場所と警衛が終わって引き払うときは、支配方から指図するのでそれに従うこと。③警衛をいたす家来はいずれも強壮のものを選ぶこと。また、召し連れてくる従者は小者にいたるまで配下の者とすること。
また、下向掛御徒目付衆(げこうがかりおかちめつけしゅう)からも口達で松代藩へつぎのような指示があった。
一警衛人の着服は、小桍(こばかま)・役引き半纏(はんてん)など自由である。藩の重役はもちろん、物頭(ものがしら)など人びとを指揮する役向きは騎馬であってもなくてもよい。
一旅館前後のところに番所ができて、幕府目付方(めつけかた)から引き渡されたときは、そこで張り番をいたし、さらに夜中は不寝番(ふしんばん)をおこない、御旅館近辺を見回りすること。
一各藩は惣(そう)人数の宿泊所を屯所近くの寺院か農家などに相対(あいたい)で借りうけることは自由である。そのような場所がない場合は自分たちで屯所を建てること。もっとも、建設する場所は御下向掛御徒目付に伺いをたてて指図をうけること。
一持ち場交代の時期は、和田宿御泊まりの御着輿(ごちゃくよ)から警衛をはじめ、翌々日沓掛宿御旅館御着にて終了とする。
いっぽう、和宮の御輿の通過する沿道の警衛には、京都から大津までを青山下野守(しもつけのかみ)(丹波篠山(たんばささやま)藩)と稲葉長門守(京都所司代、山城淀(やましろよど)藩)、草津(滋賀県草津市)から愛知川までを遠藤民部大輔(みんぶたゆう)(近江三上(おうみみかみ)藩)など六人の大名、愛知川から醒ケ井(さめがい)(滋賀県米原町)までを井伊掃部頭(彦根藩)、醒ケ井から垂井(たるい)(岐阜県垂井町)までを松平時之助(美濃岩村藩)、垂井から美江寺(みえじ)(岐阜県巣南町)までを戸田采女正(大垣藩)、美江寺から鵜沼までを永井肥前守(美濃加納(かのう)藩)などに任命した。鵜沼から信州本山までは尾張大納言(尾張藩)が担当し、本山から下諏訪(下諏訪町)までを松平丹波守(たんばのかみ)(松本藩)、下諏訪から和田までを諏訪周防守(すおうのかみ)(高島藩)、和田から岩村田までを牧野遠江守(とおとうみのかみ)(小諸藩)、岩村田(佐久市)から追分(軽井沢町)までを内藤志摩守(しまのかみ)(岩村田藩)と堀長門守(ながとのかみ)(須坂藩)、追分から坂本までを板倉主計頭(かずえのかみ)(上野安中(あんなか)藩)、安中から本庄までを松平恭三郎(吉井藩)など三人の大名、本庄から桶川までを松平下総守(しもうさのかみ)(高崎藩)、桶川から板橋(東京都板橋区)までを土井大炊頭(おおいのかみ)(下総古河(しもうさこが)藩)など二人の大名が警衛にあたり、その後最終点の清水家屋敷に入ることになる。
和宮一行の通行日程と休泊日程は、表6のようである。信濃の国内については御小休み・御昼・御泊まりなどまで明細を記した。
このようにして、和宮の御輿の前後と道中の警衛が信濃の国では松代藩など信州の諸藩に割りあてられた。これらの準備のため、それぞれの藩では細心の注意を払ってその準備にあたることになるが、具体例を松代藩でみていくことにする。文久元年八月二十七日、江戸詰め松代藩士の津田転(うたた)(高一四〇石・役料三五石)は、同藩江戸詰家老(づめかろう)で勝手取り締まり御用掛玉川左門(高六〇〇石・役料五〇石)からつぎのような御用を仰せつけられている。「和宮様御下向の節、御道中筋和田宿から沓掛宿まで御警衛につき御供御目付様から御達しの次第もあり、御持ち場へまかりいで万端相伺い、さらに御在所松代へまかりこすように」。そこで、津田転は二〇両を内借し、九月一日に人足五人・馬二匹で和田宿へ出立し、六日に到着して下見をしている。そのうえで、十数ヵ条にわたる疑問点を幕府にただしている。たとえば左のようである。
①「和田宿御泊まりの当日、いずれの場所まで人数を繰りだし控えているべきか。御番所を私どもに御引き渡し後、番士などを張り番に出し、その他の人数は屯所で控えていればよろしいのか」。これにたいする幕府の返答は「御着輿三日前から御番所を引き渡す」。
②「宿内見回りは夜中だけで、暮れ六ッ時(夕方六時ころ)から明け六ッ時(朝六時ころ)までと心得るが、半とき(約一時間)ごとに見回りをするべきかどうか。また、御旅館前を境に左右から見回りをするべきかどうか」。幕府の返答は、「御番所から宿内を見回りすることはしなくてよい。もっとも御旅館の裏のほうに御番所がつくられ勤番を仰せつけられた場合は、番士のものは御旅館の外をしばしば見回るようにせよ」。
③「御番所へ幕府の御幕を張るべきか、あるいは自藩の幕をはるべきか。それとも幕を張ることはしなくてもよろしいのか」。幕府の返答は「自藩の幕を使用されたい」。
このように、かなり細かいところまで質問を出し、幕府の返答を引きだしている。ところが、十月十七日になると、老中久世大和守(やまとのかみ)から呼び出しが到来したので、即刻松代藩留守居役(るすいやく)玉川一学(高一四五石・役料七四石、別段一五石)が出頭したところ、つぎのような御達しがあった。
和宮様御下向の節、御道中筋御道固め
下諏訪宿より芦田宿まで 真田信濃守
諏訪因幡守(いなばのかみ)
右の通り相心得、諏訪因幡守と申し談じ家来差しいだし御道固めいたさるべく候、人数・馬・武器などの儀は、面々見込み次第たるべく候、もっとも見込みの趣御供御目付へ相届けらるべし、これにより和田宿より沓掛宿までの御先・御跡御警衛は御免なされ候、
この変更届けをうけて玉川一学は藩邸に帰り、ただちに玉川左門に報告したが、このときの松代藩の対応については皆目わからない。すでに御輿の警衛の準備をととのえ、そのような心づもりでいたと思われるが、幕府の命令であり、和宮の通行が目前に迫っているなかでの変更案は受けいれざるをえないと判断したと考えられる。この変更により、和田宿から沓掛宿までの道中筋御輿御先・御跡の警衛はどの藩が代行するようになったのか、また道固めの信濃諸藩の分担がどのように変更されたのか、その辺は明らかではない。
この道固めに、松代藩はつぎのような動員を幕府から命じられた。
長柄槍(ながえやり)二五筋、鉄砲五〇挺、家老一騎、物頭(ものがしら)四騎、使者一騎、目付役一騎、番士三五人、医師二人、徒士(かち)席の者一〇人、小頭(こがしら)一〇人、足軽一〇〇人、
松代藩が動員されたところは、諏訪郡と小県郡の境目である和田峠から芦田(あしだ)宿(北佐久郡立科町)までのあいだの左の場所であった。
長久保古町本陣、有坂村、長久保宿裏古町道(小県郡長門町)、宇山(うやま)村(立科町)、笠取峠峰から宇山道、宇山道から大門道通り、大門村枝郷四泊(よどまり)、大門村、入大門村、青原村、武石(たけし)道和田埜(の)宮、大門新田村(長門町)、和田峠角間新田道字男女倉(おめくら)、和田峠松本越扉(とびら)道(和田村)
これらのなかで、もっとも動員数の多かった長久保古町本陣へは左の人数が配置された。
御家老一人 従僕二四人、御物頭一人 同七人、御使番一人 同七人、御目付一人 同七人、御番士五人 同一五人、御医師一人 同三人、御右筆(ごゆうひつ)一人 同二人、御用箱持ち一人、御徒(おかち)目付一人 切持ち一人、御目付方調べ役一人同一人、百躰(ひゃくたい)小頭一人、鉄砲組小頭一人、鉄砲組足軽一〇人、長柄(ながえ)組小頭一人、同足軽一〇人、下目付一人、才領(宰領)(さいりょう)組一人、玉薬箱一荷 持ち人一人、高張り持ち八人、髪結二人、御口の者三人、廐(うまや)長持一竿(さお) 持ち人三人・馬三匹、下座見一人、押二人、長持才領一人、持ち人四人、竹馬才領一人(下略)
ここに動員された人数は家老以下一三〇人をこえ、また馬は三匹であった。
同年十一月十日には、和宮の御通行が滞(とどこお)りなくすんだので、松代藩警衛の面々は残らず引き払い、このむねを十八日に幕府道中奉行酒井隠岐守に届けでた。この未曾有(みぞう)の和宮の通行には、松代藩など沿道警衛を命じられた諸藩が懸命の働きをしたのである。
松代藩は元治元年(一八六四)現在で、和宮様御道固め品々御入料として金三三一一両余を計上している。ほかに藩の主要な臨時出費には、御参府に金一万三六五一両余、京都御守衛方品々入料に金一六二八両余、御前様(藩主幸教(ゆきのり)夫人)御入国品々御入料に金二四六四両余、幸良(ゆきよし)夫人で幸教の義母にあたる貞松院様御入国品々入料に金二一四三両余などがあり、合計で金二万九〇七六両を支出している(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。このうち和宮関係だけで全臨時費用の約一一パーセント強を占めたことになる。諸外国との貿易が開始されていらいの物価高騰を考慮にいれたとしても、この和宮関係に使われた額の三三一一両は、かなりの額だったのである。市域の上田・飯山・須坂の各藩も和宮関係で多額の出費を強いられたと考えられる。