助郷の動員

838 ~ 841

文久元年(一八六一)十月二十日、京都を出発した和宮一行は、十一月一日には信濃へ入った。これに備えて、幕府道中奉行の触れにもとづき信濃諸藩は領民に臨時の助郷(すけごう)をかけていくが、このことが信濃諸藩の領民の肩に重くのしかかっていった。具体例を松代領水内郡南俣(みなみまた)村(芹田)でみていこう。当時、南俣村の人口動態はつぎのとおりであった(『南俣区有文書』、以下同文書による)。

   一軒数 三九軒

    この人数 男九四人

          うち三五人 一五歳前

            一四人 六〇歳以上

             五人 出奉公稼ぎ

             九人 病人

             四人 行人(ぎょうにん)

          残り二七人

 このように南俣村で助郷動員の対象になりうる村人は男子九四人中二七人であるが、ここからつぎのように助郷人足八人と補助の四人が動員された。

  一高一五八石二斗九升五合

    この人足八人 ただし、高一〇〇石につき五人一分五厘ずつ

      外に四人 村方備え人足、纏(まとい)持ちとも

 このように人足にかりだされた人びとは、十月二十九日までに筑摩郡上松(あげまつ)宿(木曽郡上松町)に参着し、十一月一日には上松宿から同郡福島(同郡木曽福島町)・宮越(みやのこし)(同郡日義村)の両宿をへて同郡藪原(やぶはら)宿(同郡木祖村)へ行き、翌二日には藪原宿から奈良井・贄川(にえかわ)両宿(同郡楢川村)をへて本山(もとやま)宿(塩尻市)までの通し人足を勤めた(図7参照)。このときの費用は一人あたり二朱で、総費用は金二両、銀に換算すると一二〇匁であった。このほか、つぎのような動員があった。

  一馬二疋(ひき)  ただし、高一〇〇石につき一疋六分五厘ずつ

 このうち一疋分は減馬となり、一疋につき金二両二分かかった。この馬は現地での雇い馬であった。

  一人足三人 ただし、高一〇〇石につき一人九分五厘ずつ

   外に一人 村方備え人足、纏持ちとも

 この人足は十月二十八日までに贄川宿に参着し、十一月三日まで休み、五日に贄川宿から本山宿へと通し人足を勤めた。宿泊や休憩に使用する小屋は、田のなかに建てられたので雨天のときは水がたまり、使用するにいたらなかった。そこで、やむなく十月二十八日から十一月五日までは木賃宿(きちんやど)を確保した。使用料は一人につき一日一〇〇文であった。以上が木曽路の上松宿と贄川宿に出向いた南俣村の当分助郷の実態であった。さらにこのうえに、つぎのような人馬の動員が南俣村にかけられてきた。

  一高一五八石二斗九升五合 ただし、高一〇〇石につき一五人ずつ

    この人足二四人、外に七人 村方備え人足、纏(まとい)持ちとも

 この人足は十一月一日に長窪(ながくぼ)宿(小県郡長門町)に行き、二日・三日は休み、四日和田宿(同郡和田村)に参着した。五日には囲い人足を仰せつけられ、六・七の両日は休み、八日には和田宿から長窪・芦田(北佐久郡立科町)・望月(同郡望月町)の三宿をへて八幡(やわた)宿(同郡浅科村)まで通し人足を勤めた。その後、南俣村の一行は上田町(上田市)経由で十日に南俣村に帰った。

  一馬三疋 ただし、高一〇〇石につき一疋六分五厘

 これは現地での雇い馬で、代金は金九両であった。

  一金一両一分一朱と銭一五〇文

 これは人びとが休憩したり宿泊したりする小屋掛けの費用であるが、南俣村など動員にかりだされた村々で割って出費し、佐久郡春日村(北佐久郡望月町)の方左衛門へ差しだした。せっかく作った小屋ではあったが、田のなかにあったので風雨をしのぐことがむずかしく、和田宿のはずれの破れ家を十一月四日から八日まで借りうけた。一人につき一〇〇文ずつ払った。以上の状況が小県郡・佐久郡への助郷の顛末(てんまつ)であった。

 なお、動員にあたってはつぎのことが触れだされた。

①村々の目印は、村名の入った幟(のぼり)一本と高張り提灯一つで、弓張り提灯、小田原提灯も村ごとに持参する。

②人足一人につき菰(こも)一枚ずつ、馬士(ばし)も一人につき菰一枚、薪(たきぎ)も少しずつ用意する。

③食事と酒・茶は一村ごとに用意する。

④馬沓(くつ)・わらじ・馬飼い料などを多く用意する。

⑤女馬は決して差しださない。

⑥人足・馬士は被(かぶ)りもの・くわえ煙管(きせる)、その他失礼になるようなことは決してしない。

⑦人足・馬士は、宿々で博奕(ばくち)などはしない。火の元には十分用心する。

⑧和田宿へ人足小屋を取り立てる。

 このように水内郡南俣村には多くの人馬の動員がかけられてきたが、このときの総費用はどのくらいであり、それをどのようにして捻出(ねんしゅつ)したのかは不明である。休泊・食事などの最低経費は後日に給付されるが、とうてい十分なものではなかった。なお、当時の和田宿は二〇〇軒余の集落であったが、この年三月の火事でその七、八割程度が焼失しており、普請中の家が多かった。松代藩は、この和田宿で町の出口と入り口に二間と八間の板構えの普請をして警固にあたった(松代町清野 上原政直蔵)。