助郷の難渋

841 ~ 845

右の和田宿での助郷を松代藩の領民といっしょに体験した飯山領水内郡小堺(こざかい)新田村(飯山市)の阿部長兵衛は、その様相をつぎのように記している(『阿部家文書』)。

 たどり着いた和田宿の状況は、この三月上旬に大方が焼失し、復興もままならぬ状態であった。(中略)人足小屋を設置するため、見回したところ、数多くの小屋はいずれも田のなかの、しかもぬかるみの場所にあり、とても人の居るような小屋ともみえなかった。屋根からは空が見え、小屋には嵐が吹きこみ、そのうえ敷物はなく、各人は肝をつぶし、ただ呆れるばかりであった(中略)。

 十一月六日、明け七ッ時(午前四時)ころ和宮一行の行列がいよいよ和田宿に入ってきた。一行の荷物は往還にあふれ出、また、多数の人びとの宿泊のため、宿内は申すに及ばず雁宿(かりやど)(借宿、北佐久郡軽井沢町)まで満杯(まんぱい)の状態になった。そのため、われわれは宿からはみだしてしまい、寝ることもままならぬ状態となり、長い夜は寒さも増し、炭火にあたることさえ容易ではなかった。また、折あしく嵐は激しく、小屋の人びとは互いに将棋倒(しょうぎだお)しになり、一同はただ夜の明けるのを待つのみであった。ところが、夜八ッ半時(午前三時)ごろから人足が出動するように、との知らせがあったので、かねてから用意の人足は、目印の高張り提灯を先頭に、村ごとに和田宿の上入り口から人足をたばねて入ってくるうちに、夜も明けてきた。和宮一行の行列はなかなか美しく筆紙にも尽くしがたいほどであった。

 このような感想はおそらく市域の松代領などの人びともいだいたに違いないと思われる。

 水内郡の例をもうひとつみよう。善光寺領の水内郡平柴(ひらしば)村(安茂里)は、朝日山(旭山)の山麓(さんろく)にある村高わずか七〇石の小村であるが、この村にも例外なく当分助郷がかけられた。このときの人馬の動員数などは不明であるが、平柴村では、写真9のような幟旗(のぼりばた)をおしたてて追分・沓掛・軽井沢(軽井沢町)の三宿と和田宿へ水内郡荒木村(芹田)など二三ヵ村とともに出動した(『安茂里史』)。このときつぎのような心得が触れだされた。

①村役人・人足世話役は和田宿へ三日以前から人馬を引きまとめて詰めること。夫食(ふじき)(食糧)・沓(くつ)・草鞋(わらじ)・包丁(ほうちょう)・蝋燭(ろうそく)にいたるまで、日用の品はすべて持参すること。

②雪中であるので、人馬の寒気をしのげるように、村々は申し合わせて小屋がけすること。

③どの村でも夫食になるような品を商うものは、和田宿へ行き商売いたせ。商う土地は最寄りのよろしい場所を地主と対談して選ぶこと(『市誌』⑬三八九)。


写真9 平柴村和宮助郷の幟旗
  (安茂里平柴 鈴木武彦蔵)

 つぎに更級郡の例を上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)でみよう(以下、『赤沢家文書』長野市博寄託による)。この村は高九四三石余で旗本の塩崎知行所四ヵ村のひとつである。文久元年十一月、上氷鉋村では塩崎知行所役所につぎのような届けを提出している。

和宮様御通輿(ごつうよ)につき、中山道和田・八幡両宿の助郷を仰せつけられ、当月一日から三日まで出向きました。才領(宰領)・小頭・村役人差しそえで行き、滞りなく勤め、十一日までに全員帰村しました。

 このとき、上氷鉋村は今井村(川中島町)・中氷鉋村(更北稲里町)とともに、和田・八幡両宿へ助郷の勤めにおもむいた。後日の同年十二月に、三ヵ村の村役人は連名で「和田・八幡両宿加助郷で多分の人馬を差しだしたので、多額の費用がかかり村々一同は難渋している。拝借金一五〇両を御貸しくださったのでたいへん助かった。この拝借金は来る戌(いぬ)年(文久二年)から向こう卯(う)年までの三〇ヵ年賦で払います」としている。このような借り入れ金返済は、同じ知行所支配下の塩崎村の長谷組についてもいえることであった。ここでも一〇〇両を借りうけ助郷の当座の資金としたが、やはりこの借り入れ金を来年から三〇ヵ年賦で返納するとしている。このことだけみても、和宮東下の当分助郷が塩崎知行所四ヵ村の領民を長い期間にわたって苦しめたことがわかる。他領の村々でも同様であったろう。

 最後に埴科郡の諸村についてみていく。松代領埴科郡岩野・清野(松代町)および土口(どぐち)・倉科・生萱(いきがや)・森・雨宮(あめのみや)(千曲市)の七ヵ村は組合村であると思われるが、文久元年十月、南俣村のところでみたのと同様の御触れにたいし、請書(うけしょ)を道中奉行に提出している。そのうえで、七ヵ村はそれぞれの村高を申告し、人足と馬の動員が表7のように決定した。


表7 埴科郡岩野村など7ヵ村の和宮助郷人馬動員規定

 和宮助郷の人馬動員の石高基準は、この七ヵ村に限らず、ふつうの高割りなら認められる川欠けなどの引き高はいっさい認められなかった。そのうえで高一〇〇石につき人足二〇人、馬二疋の割合とするきびしいものであった。

 七ヵ村では、宿場の人足継ぎ立てや払い方など万端にわたって宰領(さいりょう)する惣代二人と、七ヵ村の取り締まりをする元締め一人を、七ヵ村の代表が集まり籤引(くじび)きで決めた。倉科・岩野両村から惣代、雨宮村から元締めを出すことが決定した。このようにして七ヵ村の動員態勢がととのい、出立して和田宿から望月宿までの四ヵ宿の継ぎ立てに従事したのである(松代町清野 上原政直蔵)。