元治(げんじ)元年(文久四年、一八六四)七月二十三日、朝廷は禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)による長州軍の皇居内への発砲を理由に、長州追討を幕府に命じた。これをうけた幕府は、翌日中国・四国・九州の二一藩に出兵を命じ、その他の諸藩には京都・近畿の守備を命じた。幕府は征長総督に前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)を任命し、征長軍を進めようとした(第一次長州戦争)。八月十三日、ときの老中高島藩主諏訪忠誠(ただまさ)らから、陸路芸州(広島県)より岩国(山口県岩国市)へ攻める一番隊として松代藩にも出陣が申し渡された(表8)。当時京都御所警衛の任にあった松代藩主真田幸教(ゆきのり)は、八月十四日に江戸をたった飛脚の触れを、十六日暁に京都で受けとっている。
この征長にたいして、征長軍参謀西郷吉之助(隆盛)は、膨大な出費をともなう戦闘には消極的で、長州藩を内部分裂させて政治的決着をはかる方針をとり、征長総督徳川慶勝の意向も長州藩の謝罪降伏に主眼が置かれた。九月十五日、征長軍の足並みがそろわないなか、松代藩は先鋒(せんぽう)を免ぜられ、大坂伝法川口(大阪府此花区。中津川から分かれて西流し、大阪湾に注いでいた。明治四十三年新淀川完成で姿を消す)警備を命じられた。先鋒を免ぜられた理由は不明であるが、長谷川昭道(しょうどう)らを江戸へ派遣し、老中諏訪忠誠らを説得したともいわれる。警備の内容は、尼ケ崎(あまがさき)街道御番所(御番士三人、御徒歩(おかち)一人、小銃組頭のうち足軽三人、中間(ちゅうげん)一人)、伝法川船改め御番所(御番士四人、御徒歩二人、小銃組頭のうち足軽四人、中間一人)、同川中番船(御番士一人、御徒歩一人、足軽一人)、南伝法村御番所(御徒歩二人、足軽三人)で、通船改めや川船改めなどの任についた(『片岡志道見聞録』)。これにより松代藩の長州への出兵は沙汰(さた)やみとなった。
いっぽう、長州藩内では幕府への恭順を唱える多数派が藩府を掌握し、幕府への恭順の意をあらわした。これにより、禁門の変をおこした三人の家老と四人の参謀は自刃(じじん)を命じられ、さらに藩主毛利敬親(たかちか)父子の謝罪、山口城の破却、三条実美(さねとみ)以下公卿(くぎょう)の引き渡しが命じられ、長州藩はこれを受諾した。長州藩が罪を認めたと判断した征長軍は、十二月二十七日に撤兵令を発し、元治二年(慶応元年、一八六五)一月、広島から撤兵し、ここに第一次長州戦争は終わった。
この撤兵令の出された元治元年末から翌二年はじめにかけて、長州藩内では高杉晋作(しんさく)・桂小五郎(木戸孝允(たかよし))らが馬関(ばかん)(下関)に決起し、藩の主導権を奪い、奇兵隊以下諸隊の軍事力を背景に、藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた。これをみた幕府は、長州藩の「激徒」再発と外国からの武器輸入などを理由に、慶応元年(一八六五)四月に将軍進発を布達した(第二次長州戦争)。しかし、朝廷および諸藩には、再征反対の空気が強く、とくに薩摩藩は出兵を拒否した(慶応二年正月には坂本龍馬(りょうま)らの仲介により薩長(さっちょう)同盟が成立していた)。このあいだに長州のたくみな外交戦術もあり、戦闘開始は引きのばされ、征長軍は長期間の滞陣によって膨大な戦費を浪費し、士気の低下を招いた。慶応二年六月七日、征長軍は周防(すおう)大島(山口県大島郡大島町)を攻撃し、ここに第二次長州戦争がはじまった。芸州口(ぐち)での戦闘は一進一退であったが、石州(せきしゅう)(石見(いわみ)国)口や小倉口方面での戦いは、士気にまさり西洋式に訓練された奇兵隊ほか有志隊の活躍で、長州軍が幕府軍を圧倒した。長州軍勝利の背景には、財政改革により、洋式兵器の導入にかかる資金を積極的に藩外市場に求め確保できたこと。また、「長州びいき」の民衆意識や、米不足や物価騰貴による大坂・江戸での米商などへの打ちこわし、各地での大規模な一揆(いっき)など民衆の「世直り」意識の高揚があった。
七月二十日、一四代将軍徳川家茂(いえもち)が大坂城で病没したのを機に、幕府は同年八月休戦の朝議を得、九月二日広島の宮島において長州藩と休戦協定を結んだ。第二次長州戦争は失敗に終わった。
この長州戦争にたいし、幕府や諸藩は軍夫(ぐんぷ)を徴集し、膨大な戦費を御用金・才覚金などの名目でつぎつぎと領民に課した。これによる民衆の負担は深刻なものがあった。松代藩では、元治元年八月、第一次長州戦争にあたって村高一石につき金二分の御用金を課した。翌慶応元年六月には京都御所警衛、つづいて大坂伝法川口の警備を命じられ、在坂が長引いていることを理由に、領内各村に高掛り御用金の上納を高一石につき一両申しつけ、さらにゆとりのある個人にも御用金や献金を上納するように命じた(『山田中区有文書』)。
幕府領上町(かんまち)(長沼)は、幕末のこの時期には松代藩預り所となっていたが、慶応元年の「御国恩上納金書上帳」によると、合計で九八両二分の上納金を集めている。なかでも治郎次は、全体の約四割にあたる三五両を献金している。いっぽう、一両未満のものが三四人と全体の七七パーセントを占め、献金額には大きな差があった。同年八月、内町(長沼)の文吉は金一〇〇両を上納し、褒美(ほうび)に銀一〇枚を受けとった。同じく松代藩預り所の栗田村(芹田)倉石佐兵衛は、慶応元年から同三年にわたって金二〇〇両を献金し、苗字(みょうじ)御免とされ盃(さかずき)を頂戴している(『県史』⑦一四六三)。
松代藩では、京都・大坂などへの出兵にともなう、夫役(ぶやく)として戦地におもむく御用夫(ごようふ)を課した。藩の御用を勤めるということから御用夫人足とよばれた。藩の夫役調べ方役所が差配し、組合村へ人数を割り当て徴集した(柳澤哲「幕末・維新期における松代藩の御用夫と民衆」)。徴集単位は組合村とよばれる地続きの村々が主体となり、軍夫として弾薬や兵糧の運搬にしたがうことをおもな任務としたが、夫人(ぶにん)みずからが武器をもって従軍することもあった。夫人にかかる経費、いわゆる夫人給(ぶにんきゅう)(もあい金(きん))は、組合村において高割りによって徴収され、年中月賦制のような形がとられた。また、村独自でもあい金を徴収し、夫人給の格差を是正する村もあった。四ッ屋村(川中島町)など九ヵ村組合の例をみてみよう。表9は慶応三年の九ヵ村組合による夫人給の割合である。これによると、高一〇〇石につき、銀二一匁五分(ふん)七厘(りん)五毛(もう)の割合で徴収され、合計は三〇〇匁六分七厘となる。この組合から雇われていたのは綱島村(更北青木島町)の佐兵衛一人で、一年で金二〇両を受けとっている。
幕府領では文久二年(一八六二)十月に、軍制改革の一環として万石以下の幕臣に、知行高に応じて兵士を差しだすことを義務づけた兵賦(へいふ)令を布達した。兵士は一七歳から四五歳までの強壮のもので五ヵ年季、給金は一ヵ年金一〇両を限度に幕臣が支給するとされていたが、じっさいには領民の肩代わりがもくろまれていた。
第二次長州戦争開戦前の慶応二年(一八六六)二月、松代藩預り所となっていた幕府領赤沼村(長沼)や、西条組合上野(うわの)村(若槻)では、「兵賦一条取り極め議定書」を取りかわしている。それによると、「兵賦一人につき年に金三〇両を組合で負担する。金子は兵賦を差しだした組で預かり、役所に上納しても、当人に渡してもよい。兵賦が変死した場合には、その宿に迷惑をかけないようにする。病気などの治療費は出す。ただし、当人の不埒(ふらち)の場合にはその組で引きうけ、他の組合に迷惑をかけない」、と決めている(『荒木区有文書』)。
慶応二年七月、同じ松代藩預り所となっていた幕府領の栗田、西条(浅川西条)、六地蔵町(長沼)などの水内・高井両郡の組合四三ヵ村は、兵賦人からの夫人給増額願いを取りあげないように松代藩役所に嘆願している。「赤沼村兵賦多右衛門ら七人は、先に取り決めた兵賦一人につき金三〇両の夫人給、さらに御上様からの下賜金一〇両、都合四〇両で御用を引きうけたにもかかわらず、難渋と申しつのって夫人給の増額を願い、これまでに五二両にもなっている。また、山地組合の原新田村(信濃町)嘉助は、組合四三ヵ村の兵賦惣代として六月に帰国し、このたびの長防御繰り出し御用、横浜御固め御用などで御供を仰せつけられたが、諸色(しょしき)高値の折から、準備などの費用として九〇両で引きうけたいと申しでた。組合では集会をもち、最終的に金七〇両と定めて出府させたが、嘉助は同意しないままそのむねを他の兵賦に伝えるとして出府した。「このような状態では、村々は難渋におちいり、五ヵ年はもちろんのこと、一年間の相続も約束できない。村々が難渋することは必至であり、兵賦どもの言い分を聞いていたのでは、夫人給は御仕法の倍にも達してしまう。村々の治まり方にもかかわる大事なので深く考慮されて兵賦人の願いを聞き入れないでいただきたい」(『県史近代』①九九)という訴えであった。
幕府による兵賦人の差し出しは、多額の村々もあい金(増し金)なしでは人を確保できず、兵賦人から足もとをみられてもあい金はつりあげられるいっぽうで、村々にとっては大きな負担となっていたことがわかる。
慶応二年十月には、同じ松代藩預り所の水内・高井の幕府領組合村の取締役から献金の見合わせについてつぎのような願書が出された。「このたびの長州討ち入りについての御用は膨大で、遠路夫役など差しだすのは難儀である。近ごろは不熟の年が多く、とくに今年は七月下旬から冷気が強く、その後八月下旬には、まれの大風雨の災害が数度あり、本・新田とも残らず青立ち同様であり、破免(はめん)のうえ検見(けみ)をお願いしたい。また、畑方は粟(あわ)・稗(ひえ)・大小豆そのほかとも実らず、年貢金の最大の資金源のはずの木綿も、いまだ房も出ない状態で村々は難渋し、御救い願いを出したいほどである。当節では世間に不穏な雰囲気もうかがえる。なにとぞ御賢慮をもって御用金・献金などの沙汰(さた)はお見送りいただきたい」(『県史近代』①一〇五)、としている。
この献金見合わせ願いが出された年の二月十八日、西郷隆盛が郷里の友人である蓑田(みのだ)伝兵衛にあてて、「もしや戦争始まり候わば、諸方に蜂起(ほうき)致すべく、甲・信二州の辺にもその萌相顕(きざしあいあらわ)れ候由、一度動き立ち候わば、瓦解(がかい)致すべき事と存じ奉り候」と書き送っている(『西郷隆盛全集』②二九)。五月に入ると、米価の高騰に端を発した一揆が大坂西宮(兵庫県西宮市)からはじまり、大坂市中に広まった。六月には武州一揆(いっき)や信達(しんだつ)一揆が武蔵と福島で発生。信州でも八月に木曽の貧農らが、米の安売りを求めて松本平の豪農商らを襲う木曽騒動がおこった。民衆蜂起との関連で幕府の瓦解を予想した西郷の予感は的中したのである。幕府の長征は背後をこうした打ちこわしや百姓一揆、重い賦課に苦しむ領民の不穏状況に脅(おびや)かされていた。物価騰貴と民衆の負担増は開港いらいの傾向であったが、第二次長州戦争はそれに拍車をかけ、社会的矛盾を激化させた。この第二次長州戦争の失敗は、幕府の権威失墜を決定づけ、以後幕府支配の崩壊は時間の問題となった。