元治(げんじ)元年(文久四年、一八六四)八月、上田藩は長州追討にあたって、将軍徳川家茂(いえもち)身辺の警衛を任務とする御旗本左右の備えを命じられた。藩ではただちに従軍編成をおこない、十月九日、幕府御用番御留守居松平伯耆守(ほうきのかみ)(宗秀)に以下のような出兵人数の書き上げを送った。①侍一〇四人、うち騎馬二〇騎、②徒士(かち)小役人類五〇人、③足軽二〇四人、④大砲六門、⑤小銃二〇〇挺、⑥弓ならびに長柄(ながえ)、⑦旗・馬印・纏(まとい)一七本、ほか従者・雑卒などであった(『県史近代』①三二)。出兵に先立ち藩主松平忠礼(ただなり)は、このたびの出陣は「家の美目(びもく)、武門の本意に候」、「是(これ)実に将軍家へ忠勤を尽くし候赤心にて、家をも興し候時と決心いたし候」と申し渡している(『県史近代』①三一)。
信州では上田藩と同じく高遠藩が将軍御旗本左右備えを、松本藩が後備えを命じられた。しかし、先にもみたように、同年十一月、長州藩が幕府に恭順(きょうじゅん)、謝罪したことから、将軍の進発(出陣)がとりやめとなり、三藩とも出兵にはいたらなかった。
同年九月、上田領と幕府領の相給である更級郡今里村(川中島町)村役人は、中之条代官所にあてこの長州出兵での従軍夫人足の免除をつぎのように願いでた。当村は、宝永三年(一七〇六)に高一一三七石五斗一升六合のうち、八八石八斗五升三合分が幕府領となり、のち新田分を加えて八九石七斗六升余が幕府領となったが、その後、長百姓更級久右衛門ほか一二人は、銘々同村内の幕府領などへ出作(でさく)地をもつようになった。「今般、長防御征伐にあたり、松平伊賀守様御供として、夫役金高一〇〇石につき金三両ずつ、このほか調達金として金一〇両ほどを仰せつけられた。夫役金はおのおの所持する出作高にもかかるのはもちろんであるが、調達金は上田藩などの私領のものに限り課せられ、幕府領への出作高にかけるのは承伏しかねる。しかし、このたびは御領主様もよんどころない事情ゆえ差しだすことにする。さらに、夫人足五人のうち一人を幕府領への出作一三人のものから差しだすのは筋違いであるので免除していただきたい」とある(『更級英子文書』)。これらの出兵にあたって費用や人足は、十一月に征討が中止になったことから、じっさいには徴収されなかったものと思われる。
ところが、元治二年(慶応元年、一八六五)一月、長州で高杉晋作などが決起し、長州藩論は幕府への抵抗に一変した。これにたいし幕府はふたたび長州藩を征討することを決意し、慶応元年四月十九日、長州再征令を発した。先の信濃の三藩は、第一次征長と同様、上田・高遠両藩が将軍の左右備え、松本藩が後備えを命じられた。出陣にあたっての「御軍令条々」には、「このたび毛利大膳(だいぜん)征伐のため進発につき、旗本ならびに諸軍勢万事相慎み、無作法の儀がないよう下々(しもじも)まで入念に申し付ける」とし、喧嘩口論の禁止、作物・竹木の刈り取り禁止、捕虜殺害の禁止、軍法に背かないことなど一四ヵ条が触れられた。また、「下知状(げちじょう)」にはさらに細かく、「乗馬・小荷駄とも持ち主の名前、何番隊と記すこと。陣中では物静かにし、下知なく立ち騒がないようにする。着陣したら毎夜かがり火をたき、人夫は陣場奉行より、薪(たきぎ)は代官から差しだし、陣の四方に限らず隊ごとにたいてもよい。火薬の管理は昼夜に限らず番をつけ厳重におこなう。夜討ち、忍びのものには警戒を怠らず、敵のようすは昼夜に限らず穿鑿(せんさく)する。謀書(ぼうしょ)・矢文(やぶみ)・捨文(すてぶみ)は見つけしだい大小目付(めつけ)に報告する。陣中で伝染病を煩(わずら)うものがいたら小屋に置き、その筋へ見せ手当てをすること。出征中は親類の忌服(きぶく)は受けてはならない。ただし、父母の場合には三日間勤めを免除する」など、戦場での細かい規定がなされた(『上田市史』上)。
上田藩は五月十六日の将軍家茂の江戸出発に先立ち、四月二十七日に江戸を出発した。藩主をはじめ士分九〇人、徒歩(かち)小役人四三人、足軽一三〇人、中間(ちゅうげん)一七〇人、持夫(もちふ)四二〇人、計八五三人の軍勢であった。出兵にともなう荷駄は、武器・雨具長持八〇棹(さお)、乗馬一八疋、大砲二門、小銃二六三挺。さらに上田からも士分二〇人、徒士小役人九人、足軽一〇五人、中間五二人、持夫一三三人、計三一九人が出兵した。荷駄は武器・雨具長持二五棹、乗馬九疋、大砲四門、小銃一三〇挺。江戸と上田の双方で、一一七二人が出兵したことになる。玉目三貫五〇〇目の臼砲(きゅうほう)二門、玉目三貫目の大砲四門は、運搬が困難なため幕府海軍操練所に依頼し、海路大坂へ回送された。
高遠藩でも江戸から六六四人、高遠から五三二人、合わせて一一九六人が大坂をめざした。後備えの松本藩はおよそ藩士六〇〇人、軍夫五〇〇人、計一一〇〇人を動員した。
上田藩の軍装および携帯品は表10のようであった。具足は一括して荷造りし、戦地において渡すことになっていた(『上田市史』上)。
大坂まではゆっくりとした一ヵ月半の行軍であった。大坂滞陣中にも、市中の巡邏(じゅんら)役などをはたしたものの、装備とは裏腹に緊張感を欠いた(本節二項参照)。写真10は大坂滞陣中の慶応二年四月八日、大坂心斎橋の祗山館(ぎざんかん)において撮影された上田藩士上野志道(二二歳)である。床机に腰かけ大小の刀を差し、陣羽織にズボンをはき、足もとには陣笠が置かれている。
上田藩の飛び地である川中島五ヵ村では慶応二年、物資運搬のための人足(夫人)として一七人が大坂表へおもむき、四七一両余が五ヵ村から支払われている(『青木十郎家文書』長野市博寄託)。それをまとめると表11のようになる。この夫人給は慶応元年・二年の両年で七三〇両一歩二朱と銭三一二文に達した。
軍事・兵学者として知られ英国式の調練法『英国歩兵練法』を翻刻(ほんこく)、出版した上田藩士赤松小三郎も、この第二次長州戦争に従軍した。国の行く末を案じ、慶応二年八月に時事を論じた「口上書」を幕府に提出した(『県史近代』①四四)。小三郎は、「このたびの征長の御軍備は軍・将兵事に巧まず、列藩令に服さず、兵器不足、兵勢力乏しく、兵法立たず、諸軍不一和、諸兵の配賦不適当で勝算のないことは瞭然(りょうぜん)である」と断じている。その打開策として広く有能な人材を登用しなければ、富国強兵は実現困難であると主張した。しかし、その声は幕府には届かず、小三郎は幕府のスパイとみなされ、門下生の多かった薩摩藩士などにより慶応三年に京都で暗殺された。
慶応二年六月に周防(すおう)大島(山口県大島町)で開戦した戦闘は、徹底した洋式化がはかられた長州藩の前に征長軍が各方面で敗退する。七月二十日、将軍家茂が大坂城で病死すると、徳川家を継いだ慶喜(よしのぶ)は長州藩との休戦を求め、九月二日に休戦協定が結ばれ、慶応三年一月に長州藩の勝利のかたちで終結した。