上田藩川中島領の調達金

857 ~ 860

元治元年(文久四年、一八六四)七月からの第一次長州戦争で、信州の諸藩では、上田・高遠両藩が征長軍本陣の左右備えを、松本藩は後備えを命じられた(本節一項参照)。上田藩の分家筋にあたる旗本松平氏の塩崎知行所にも人夫徴発の動員がかかった。ここでは、まず長野市域などにある五〇〇〇石余の上田藩川中島領の領民に課せられた調達金の状況からみよう。

 上田藩では出陣の経費に困り、高掛り御用金を領民に課したが間にあわず、別に領分全体に二万両の調達金を割りつけた。上田藩川中島領の領民にもその何割かはかかってきたと考えられる。しかし、同年十一月、長州藩では俗論派といわれる保守派が藩権力をにぎり幕府に恭順、謝罪したため長州征伐はとりやめとなった。したがって、上田など三藩は出兵にいたらなかった。おそらく、上田藩川中島領などでの調達金の徴収もおこなわれなかったと思われる。

 その後、長州藩では高杉晋作などが決起して正義派を結成し、藩論を幕府への抵抗に一変させた。この動きをみて幕府は、慶応元年(元治二年、一八六五)四月、第一次長州戦争のときと同様、上田・高遠両藩には幕府本陣の左右備えを、松本藩には後備えを、小諸藩には随従を命じた(本節一項参照)。上田藩は、征長軍本陣の左右備えという役割から考えると、将軍に随従するのが当然であるが、大坂までは長州軍と遭遇する可能性がなかったためか、三一〇人余の軍勢は在所上田から直行し、江戸からの出陣は八五〇人余であった。江戸出発軍は、将軍家茂(いえもち)の五月十六日の出発におくれて二十七日に出立し、一ヵ月半もかけてゆるゆると大坂まで行軍した。大坂での勤務は市中巡羅(じゅんら)などで、ほかに調練稽古(ちょうれんけいこ)程度であり、近隣の寺社参りや名所や芝居の見物、ときどきの登楼散財(とうろうさんざい)など、政治的緊張を欠くものであった。けっきょく、上田藩の動員は慶応二年七月の将軍家茂の死まで一年三ヵ月の大坂滞在であった(『県史通史』⑥)。

 この第二次長州戦争にあたって、慶応元年五月、上田藩は領民へ調達金を賦課(ふか)した。上田藩川中島領五ヵ村の更級郡稲荷山(いなりやま)村(千曲市)、岡田村(篠ノ井)、今里村・戸部村(川中島町)、中氷鉋(なかひがの)村(塩崎知行所中氷鉋村と分け郷、更北稲里町)にも総額で一七〇五両の調達金が課せられた(『市誌』⑬一四六、以下同史料による)。この返済方法は、「来る寅(とら)年(翌年)から三ヵ年にわたって御下げにする」方針であった。一七〇五両の村別の内訳額は表12のとおりである。


表12 上田藩川中島領5ヵ村長州戦争調達金割合

 表12からわかるように、調達金額を全納できたのは、今里・中氷鉋両村のみで、他の三ヵ村は約五六パーセントから八八パーセントの納付充足率にすぎなかった。この全納しえなかった三ヵ村にたいして藩が調達金差し出しの督促をしたようすはうかがえない。いっぽう、この表からわかるように藩は五ヵ村にたいして全調達金一七〇五両の約三分の一にあたる約五七六両余を寅年から辰(たつ)年まで村ごとに返納していくが、返納額は寅年分のみの記載で終わっているので、卯(う)・辰両年の返済状況はわからない。おそらく、明治維新のどさくさのなかで、うやむやになってしまったのではないかと考えられる。

 寅年分の村別の返済の一例を戸部村でみよう。

  元四〇九両也

     一三八両一分二朱ト一分二厘   戸部村

      内              元

                     四両  政吉

     五両二分二朱ト二匁五分二厘 但し二両 惣之助

                     (三人分中略)

                      〆一六両三分

                      献金の分引、

  残一三二両二分三朱ト一匁三分五厘  

      内

      二分三朱ト一匁三分五厘

  又残一三二両 但し 四〇九両御証文の内

      右卯十一月別帳より渡す、

    利一五両三分一朱ト一匁六分五厘 指引帳ヘ出ス、

 右からわかるように、上田藩では戸部村の調達金四〇九両のうち、寅年分一三八両一分余を返済するにあたり、村内の政吉ら五人の献金一六両三分のうち、寅年分献金額五両二分余を差し引き一三二両を返済した。この借り入れ返済額には一五両余の利息がついた。なお、前記したように、この史料からは、戸部村への残る二七七両の返済がどうなったのかは不明である。