塩崎知行所の負担

860 ~ 866

第一次長州戦争後、すでに述べたように、長州藩の藩論が幕府への抵抗に転換した動きをみて幕府は、慶応元年(元治二年、一八六五)四月、第二次長州戦争にふみきった。

 塩崎知行所の六代領主松平忠行は、今回の幕府軍進発にあたり、先発を命じられ江戸表を出発することになった。そこで、領内の上郷である塩崎村の小田井明神(おたいみょうじん)と長谷(はせ)観音へは殿様の武運長久の祈祷(きとう)が仰せつけられた。また、塩崎村へは御供(おとも)の夫人足(ぶにんそく)二九人を差しだすよう申し渡したが、塩崎村が難渋している現状から、今回にかぎって江戸表での雇い夫ですませることが認められた(『塩崎村史』)。そこで、飛脚問屋と考えられる津国屋と契約し、雇い人を江戸から大坂に従軍させた。このとき、塩崎村にじっさいに雇われたのは、持ち夫として陸尺(ろくしゃく)六人、お手回りとして御鑓持(おやりも)ち二人、御草履取(おぞうりと)り一人、御座持(ござも)ち一人であった。また、道中人足の管理などをおこなう押(おし)(小差(こざし))と一般の荷物持ちをおこなう平人(へいにん)などもいた。彼らは三度の扶持とともに、一日につき、つぎの給金で雇われた(『赤沢徳宝家文書』長野市博寄託)。陸尺は一人につき銀三三匁五分(ふん)、ただし棒頭(ぼうがしら)は半人増し、お手回りは一人銀三二匁五分、押は一人銀二七匁五分、長持ちなど平人は一人銀二〇匁である。

 さらに、つぎのような細かな規定が決められた。①船川の渡し賃は領主持ちとする。②道中での逗留(とうりゅう)にあたっては、領主がわが賃金を支払う。大坂・姫路での逗留中の御用勤めは銀三匁増しとする。場所により弁当を支給する。③朝・夕・夜通しの進軍は、一里につき一人三匁、佐屋(愛知県佐屋町)回りは三匁増しとする。④閏(うるう)五月十六日に出発するが、十日から一日一人につき口米五合を給付する。陸尺については同じく口米一升を給付する。出発日が延期になった場合も同様の口米を支給する。⑤もし、この口米が支給されない場合は、平人の場合には一匁五分、陸尺の場合は二匁五分賃金を上げる。⑥夜間の進軍の場合は、高張り提灯(たかはりちょうちん)持ち二人と荷物の手替(てが)わりのものをつけるようにする。そのときは一里につき銀三匁とし、酒代も出す。⑦押(小差)は、一五人につき一人の割合で二人出す。

 いっぽう、塩崎知行所の下郷(しもごう)である更級郡今井・上氷鉋・中氷鉋(上田領中氷鉋村と分け郷)三ヵ村にも、長州戦争の動員のための調達金が課されたが、ここでは、詳細な史料が残る今井村でその実態をみていこう。

 今井村(川中島町)への調達金は、慶応元年閏五月十六日から開始された(「殿様御出陣につき調達金仰せつけられ候割合諸事控」『小林家文書』長野市博蔵、以下同史料による)。この日、知行所役人渋谷弥右衛門・柳原喜久助は連名で、「下郷三ヵ村の割番・庄屋は明十七日四ッ時(午前一〇時ころ)、下郷出張(でばり)役所まで出頭するように、病気そのほか差し支えがあるならば、日送りにしてまかりでるように」との触れを出した。十八日、下郷三ヵ村の庄屋が出頭したところ、その場で調達金を差しだすよう申し渡された。


写真11 慶応元年(1865)塩崎知行所今井村長州戦争調達金諸事控え (『小林家文書』長野市博蔵)

 今井村の場合、表13からわかるように、嶋田左門など二一人に最高額で二〇〇両、最少額で一五両、合計一五二〇両の調達金が課された。この二一人は、全員がすでに苗字を許されているところからみて、これまでになんらかの形で領主へ調達金を差しだしていた百姓と思われる。調達金の額と人数とから推測すると、今井村にはかなりの富農層が多数存在していたと考えられる。今井村は川中島平の穀倉地帯の一角を占める農業生産力の高い地域であり、同時に諸稼ぎ・諸営業のさかんな村でもあった。慶応三年に酒造三軒、穀商売六軒、油屋四軒などがある(『市誌』③五章四節酒造と諸稼ぎ参照)。北国街道が村を縦断して人びとの往来がさかんなため小商いの従事者も多く、南隣りの松代領原村(川中島町)では十二斎市(じゅうにさいいち)が開かれていた。


表13 今井村調達金割り当て一覧

 さて、右の名指しで調達金を命じられた二一人を除いた今井村百姓五三人には、つぎのような形で調達金が課された。

   一金一〇両  利根川伝吉

   一金一〇両   小林要八

   (五〇人分中略)

   一金一両    武右衛門

  〆金二一一両一分

    庄吉儀、極難につき御除きに相なり候につき、三分引き候、金二一〇両二分也、

   金七〇両一分二朱永四一文七分  六月二十八日納

    一うち庄吉分一分引き候、

   金七〇両一分二朱永四一文七分  十二月納

    一うち庄吉分同断

   金七〇両一分二朱永四一文七分  寅三月納

    一うち庄吉分同断

 五三人には、三分割の納入が認められており、また極(ごく)難渋者は減免されている。

 先の二一人にたいする調達金は、今井村に居をかまえている個人へ割りふった調達金と考えられる。この五三人の二一〇両余の調達金は、今井村として割りあてられたと考えるべき性質のものであろう。

 それにしても、この二一〇両余を個人調達金一五二〇両に加算すると、今井村の調達金合計額は、じつに一七三〇両余にも達する。当時、今井村の石高は一一三三石二斗九升余であった。ここに調達金一七三〇両余が賦課されたのは、村高二五七〇石の塩崎村で五八〇両の調達金だったのとくらべ、ひどくアンバランスである。また、武蔵(東京都・埼玉県と神奈川県東部)・近江(滋賀県)などに九五〇〇石の知行地があった大身旗本横田氏が、長州戦争の武具・人夫を用意するため武蔵国の知行地村々に賦課した御用金は一五〇〇両ほどであったというが(小野正「幕藩権力の解体」)、これとくらべても今井村の負担額は重かったといえるだろう。

 なお、三分割納入を認められた二一〇両余の第一回分は、六月二十八日に納入されたが、これにたいして一割三分の利率で来る寅(とら)年から酉(とり)年までの八ヵ年間で年賦返還することを領主役所は約束している。

 十二月分納入後の慶応二年二月には、つぎのような触れが出されている。「諸色(しょしき)高値の折柄、殿様の御入用もかさんでいるが、万事ことごとく御倹約遊ばされた結果、差しあたりは十二月納めの分で当分のやりくりができる見通しなので、三月納めの分は追って御沙汰があるまでは上納におよばない。もっとも、いまだいつ御帰府できるかも分からず、どんな事変が突発するかも計りがたいので、銘々へ預けておくものであるから、御入用の節は指示しだい早速上納するように」。

 この触れでは、最後の三分の一にあたる三月の納入分は見送ったのであるが、七月二十一日になると、第二次長州戦争がはじまるなかで、第三回上納分を八月二十八日までに納入するよう命じている。

 今井村へ入作(いりさく)している松代領原村・小松原村(篠ノ井)と上田領今里村(幕府領今里村と分け郷、川中島町)の百姓にも、今井村の百姓同様、調達金が課されている。その納入方法は、自村百姓と同様に六月・十二月・翌年三月の三分割納であった。第一回分は六月二十六日につぎのように納入されている。

  原村入作分    四〇両のうち一三両一分一朱ト永二〇文八分三厘

  今里村入作分   六両三分のうち二両一分

  小松原村入作分  二両二分のうち三分一朱ト永二〇文八分三厘

 三ヵ村合計四九両一分のうち、一六両二分余が納入された。あとの二回分の納入も自村百姓と同じにおこなわれたと思われる。

 以上のように、今井村百姓および今井村入作百姓に合計一七七九両の調達金が課されたのであった。知行所の他村へも、金額の多少はあれ、まったく同様に調達金が課されたと考えられる。

 下郷三ヵ村では慶応二年三月六日から八日まで、「殿様御武運長久の護摩(ごま)修行」が村の切勝寺(さいしょうじ)でおこなわれ、村役人から八日は休日とするので切勝寺へ参詣するよう触れだしている。切勝寺は、治承五年(養和元年、一一八一)の横田河原の合戦で、平家がわの越後の武将城(じょう)四郎資職(すけとも)軍を破った木曾義仲の四天王の一人今井兼平(かねひら)が開基したといわれる名刹(めいさつ)で、たぶんこの伝承をふまえて切勝寺へ祈願したものであろう。同日、今井村名主小林、上氷鉋村名主十代田(そしろだ)、中氷鉋村名主清水の三氏がそろって昼過ぎ切勝寺へ参詣し、祈祷料金三〇〇疋(ぴき)(金三分)を上納している。また、三人の名前で寺僧へ金二朱を志納し、祈祷後酒・夕飯の馳走にあずかっている。なお、祈祷をおこなった切勝寺は護摩札(ふだ)一枚ずつを殿様、江戸屋敷の惣家中、下郷出張陣屋(でばりじんや)、下郷三ヵ村のそれぞれへ御供え餅を添えて配付している。塩崎村でも長谷寺で護摩修行がおこなわれた。


写真12 戦勝祈願がおこなわれた今井村の切勝寺
  (川中島町)

 最後に、文久二年(一八六二)十二月の軍政改革にともなう兵賦(へいふ)の徴発についてみておこう。先に松代領・幕府領の例をみたが、塩崎知行所全体では一六人であった。そのうち塩崎村では一〇人の兵賦が翌年一月に江戸へ出立している(『赤沢家文書』長野市博寄託)。慶応三年(一八六七)の第二次長州戦争では、幕府は一〇〇〇石につき一人の割合で兵賦を課し、ただし人員でなく、兵賦金として一人につき二〇両差しだすことを命じた。

 幕府へ差しだす兵賦とは別に、塩崎知行所では知行所自身の防衛のための農兵の組織化もおこなわれた。実態は不明な点が多いが、知行所全体で九五人、うち六〇人は塩崎村の住民で編成された。教官は代官野本万五郎、小隊司令官渋谷弥右衛門・赤澤丈之助であった。隊列順は斥候(せっこう)四人、御紋付き旗、高張り提灯、鞆手(ともて)三人、手銃方、弾薬方、従軍医松林通泰、兵銀方などであった(『塩崎村史』)。