真田幸貫と佐久間象山

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八代藩主真田幸貫(ゆきつら)については、前章で詳述されている。ここでは、佐久間象山を中心にして真田幸貫とのかかわりについて記す。

 嘉永四年(一八五一)十一月、象山は上総(かずさ)姉ケ崎(千葉県市原市)警備の中津藩(大分県中津市)から依頼された大砲の試射をしたが失敗してしまった。このため、松前藩の大砲注文も破談となる。

  しゆり(佐久間修理)もせで書物をあてに押し強くうてばひしげる高まんのはな

  松前にことはりくふて手付金今更なんとしやう山(象山)のざま

  大砲を打ちそこなつてべそをかきあとのしまつをなんとしやう山

 ペリーが浦賀沖に来航する二年ほど前、すでに佐久間象山は他の藩から大砲試射や訓練の教授を依頼されるほど知られる人物になっていた。姉ケ崎での大砲の試射は皮肉にも佐久間象山の名をより広く知らせることにもなった。

 明治三十一年(一八九八)ころ浅井洌(きよし)によって作詞された「信濃の国」に佐久間象山が歌いこまれている。「信濃の国」が広まるにつれて佐久間象山の名も広く知られるようになっていった。明治四十四年二月信濃教育会の議員会(総会)において象山五〇年祭と象山全集の編さんに着手することが議決された(『信濃教育会九十年史』)。『象山全集』全五巻は大正二年(一九一三)に信濃教育会から刊行された。象山の顕彰はさらに象山神社の建設にいたる。象山の地元松代と信濃教育会、信濃教育会埴科部会が連携して長野県下各学校の児童から寄付を募り、昭和十三年(一九三八)十一月に完成鎮座祭がおこなわれた。


写真13 佐久間象山肖像画(真田宝物館蔵)

 『象山全集』を手がかりに象山の閲歴をざっとみてみよう。象山(実名はじめ国忠、のち啓(ひらき)、またの名は大星、幼名は啓之助、通称修理(しゅり)、字(あざな)ははじめ子迪(してき)、のち子明、号して象山。ここでは象山で記す)は、文化八年(一八一一)二月十一日松代有楽(うら)町に生まれた。文政八年(一八二五)象山一五歳のとき、はじめて藩主真田幸貫に謁(えつ)した。同十一年一八歳のとき父一学から五両五人扶持の家督が譲られた。このころ易(えき)の勉強に励み夜を徹することもあった。経義文章を藩士鎌原桐山(かんばらとうざん)に入門して学び、和算を同じく藩士の町田源左衛門に学ぶ。天保元年(一八三〇)二〇歳のとき、一年間に一〇〇編の漢文を作ったとして、藩主幸貫より学業勉励を賞されて銀三枚を賜わる。天保四年十一月下旬二三歳のとき、藩の許可を得て江戸に遊学し、幕府の林家(りんけ)の門に入り学頭の佐藤一斎(いっさい)に学ぶ。松代藩として江戸に遊学したのは、佐久間象山がはじめてであった。このときの学資は家老の矢澤監物(けんもつ)からの借用と幸貫よりの援助による。佐藤一斎に学ぶこと二年余りで帰藩し、天保七年二月城内で儒学を講義するいっぽう、自宅で講書ならびに武芸を教えた。

 天保十年二九歳のとき、江戸へふたたび遊学する。同年六月、江戸神田お玉ケ池に象山書院を開く。翌十一年春発行の「江戸名家一覧」に象山の名前が載せられている。

 天保十三年六月、真田幸貫は幕府の老中となったが、翌年海防掛に就任すると、象山に海外事情の研究を命じた。これより前、アヘン戦争の情報に衝撃をうけ、海防問題に取りくんでいた象山は天保十三年十一月、幸貫につぎの内容の「海防八策」を上書する。

 ① 海岸防備を厳重にし、砲台を築いて大砲を備えること。

 ② オランダとの交易で銅を輸出していたのを停止し、その銅で西洋式の大砲を鋳造すること。

 ③ 西洋にまねて大船をつくり、江戸廻米に難破船がないようにすること。

 ④ 海運の取り締まりに人を選び、外国との通商などを監視すること。

 ⑤ 西洋式の戦艦をつくり、水軍(海軍)に習わせること。

 ⑥ 村々に学校をおこし、教化を盛んにして、愚夫・愚婦にも忠孝をわきまえさせること。

 ⑦ 御賞罰を明らかにし、民心を固めること。

 ⑧ 貢士(こうし)の法をおこすこと。

 この八策のなかで、もっとも急務とするところは大砲をつくること、軍艦をつくり海軍を装備することだと強調している。「海防八策」の提言は、対外的危機意識からのもので、先駆的なものであった。八策を具申する少し前の九月、象山は伊豆韮山(にらやま)(静岡県韮山町)の幕府代官江川太郎左衛門の高島流砲術の門に入門する。翌天保十四年二月、免許を得て江戸に帰るが、このあいだに幸貫の内命により伊豆沿岸を海防のため視察している。象山の対外的危機意識を高めたアヘン戦争は、天保十一年におこり、同十三年に終結している。『象山全集』巻一の「小伝」は、こう記している。「我が日本もまた新たに大いなる脅威を感ぜざるえず、幸貫はあたかもかかる時勢に際して特に海防事務を管轄する任に当たり、すなわち象山先生を選んで顧問とする。象山をして、ヨーロッパ諸国の実情を研究しこれにもとづいて外国防衛の策を講じさせる。アヘン戦争は東洋の形勢を一転させると共に、また象山先生の生涯における一大転回の機会でもあった。しかも幸貫が老中として海防事務を管轄することがなければ、象山先生の一生の事業もまたはたしてどのような形をとったであろうか」。

 真田幸貫は天保十五年(弘化元年、一八四四)五月十三日、老中を辞した。この結果、象山の海防に関する知識を幕政に直接反映させることはできなくなった。象山のことばに「東洋の道徳、西洋の芸術(科学)」とあるように、アヘン戦争を契機として象山は西洋の科学をいち早く重視し、当時唯一輸入されていたオランダ語の洋書の翻訳や大砲の鋳造と砲術に力を注いでいった。

 嘉永元年(弘化五年、一八四八)藩命により野戦地砲を鋳造し、松代の西の道島において試射をした。翌二年には、松代南善寺馬場において三斤野戦銃の射撃を試みる。同三年六月、江戸において松代藩の砲術訓練があり、門弟を率いていく。八月浦賀奉行所(神奈川県横須賀市)の砲術師下曽根(しもぞね)金三郎の依頼をうけ、浦賀に行く。この年、松前藩(北海道松前町)よりカノン砲の鋳造の依頼をうける。このような活躍が認められ、同四年正月二十六日、「砲術門人等大勢出来(しゅったい)につき」ということで、江戸での家族といっしょの居住が認められた。江戸居住の許可は、藩主幸貫の「広量深慮」と、家臣の三村晴山(せいざん)、山寺源大夫、竹村金吾などの尽力によるという。

 嘉永四年二月十七・十八両日と二十六日に、埴科郡生萱(いきがや)村(千曲市)で大砲の試射をした。江戸の門弟も参加している。二十六日に試射した砲弾が南西の一重山(ひとえやま)をこえ、幕府領の小島村(千曲市)地内に落ち、中之条代官に咎(とが)められるという問題を起こしている。十一月上旬、前記のように姉ケ崎で中津藩依頼の大砲の試射をするが、砲身に故障があって失敗した。この失敗により松前藩から依頼されていた大砲の鋳造計画も破談になってしまった。このとき詠まれたのが冒頭に紹介した落首である。象山は失敗にこりず、翌五年五月二十八日・六月一日の両日、さらに翌六年春、大森海岸(東京都品川区)で、大砲の試射をしている。そしてこの年の六月にペリー艦隊が浦賀に来航するのである。


写真14 嘉永4年(1851)佐久間象山らの大砲試射碑
  (千曲市生萱)

 象山の藩へのかかわりには、砲術や軍政のほかに、藩の家臣やその子弟に教授する藩学へのかかわりと、藩飛び地領である高井郡沓野(くつの)・佐野・湯田中三ヵ村(山ノ内町)にかかわる郡中横目役がある。藩学へのかかわりとしては、天保七年から約三年間城内で儒学の講義をする月次(つきなみ)講釈を勤めている。天保十二年から翌年にかけては江戸の藩学問所頭取を勤めている。郡中横目役を仰せつかったのは天保十四年十月七日で、翌年の十一月三日には「三ケ村利用掛」を命じられている。この掛は象山のためにつくられた係といってもよい。三ヵ村への出張踏査を四回おこなっている。一回目は天保十五年十月十六日からで、このとき藩の沓野奥御林(現在の志賀高原の大半)を踏査している。四回目は嘉永元年六月九日に沓野村に出張し、七月七日に松代に帰ったが、八月十日に象山の新法に反対して沓野村の百姓らが松代へ強訴(ごうそ)しようとした沓野騒動が起きている。

 嘉永四年の恩田頼母(たのも)派から真田志摩(しま)派の政権交代にともない、佐久間象山も三ヵ村利用掛を罷免された。象山は四月に家族をともなって松代から江戸に移り、五月二十八日には木挽町(こびきちょう)に家をもち砲術と儒学を講義している。

 また、象山は、科学をはじめとしてさまざまなことに挑戦する試みをした。天保十四年には測量器機の製造、弘化元年硝子(がらす)製造、同三年には種豚を松代へ送った。嘉永元年沓野村に薬用人参の種をまき、同二年種痘(しゅとう)を自分の子の格二郎と知人の幼児に試みている。安政五年(一八五八)には電池を試作した。

 真田幸貫は嘉永五年六月三日、江戸で死去した。同月二十九日松代長国寺に葬られたが、象山は幸貫の墓誌銘を選書した。