長谷川昭道(しょうどう)(幼名義太郎、のち亀吉、通称深美、号戸隠舎、一峰、静倹陣人、東洋逸民。以下昭道で記す)は象山ほどには名を知られていないが、色部祐二郎が明治四十四年(一九一一)にまとめた『象山書翰集』では「象山と昭道とは共に松代藩の偉士にして、山寺常山(じょうざん)と併(あわ)せて、実に鼎立(ていりつ)の勢にありしなり」と評価している。『象山全集』より遅れること二二年の昭和十年(一九三五)、信濃教育会から『長谷川昭道全集』上下二巻が刊行された。昭和十五年信濃教育会埴科部会は「紀元二千六百年(昭和十五年)記念事業」として、象山と昭道の肖像画を作成し、埴科郡下の学校に配付した。全集と肖像画などで長谷川昭道の名が知られるところとなったが、戦時下であり象山のようにはひろがらなかった。以下に『長谷川昭道全集』によって彼の業績の概略を紹介しよう。
長谷川昭道は文化十二年(一八一五)十二月二十九日、松代代官町に生まれた。通称は藩主真田幸貫より賜った深美、本名は正身・正義・元亮、最後に昭道と改めた。明治いらい「しょうどう」とよばれている。昭道が生まれたとき、佐久間象山は五歳であった。
天保三年(一八三二)一八歳のとき藩士菅沼九兵衛にしたがって伊勢参宮や関西巡礼の旅をした。また、菅沼にすすめられて陽明学者熊澤蕃山(ばんざん)の書を読み、また国学を学ぶ。同九年二四歳の閏(うるう)四月、四書講義を終了し、学業勉励をもって藩主より銀三枚を賜わった。
昭道が藩政に直接かかわるようになったのは天保十五年(弘化元年、一八四四)である。この年八月、藩主真田幸貫の世子幸良(ゆきよし)が亡くなり幸良の近習(きんじゅう)勤めを免じられ、郡奉行のもと民政をおこなう代官に任じられ、役料籾(もみ)一〇俵を給された。嘉永四年(一八五一)十月、政権が恩田頼母(たのも)派から真田志摩(しま)派にかわって郡奉行に任命され、藩財政役の勝手元締役を兼ね、同心一〇人を付けられた。郡奉行は従来一〇〇石以上のものが勤めていたが、昭道は前例のない低い禄(ろく)からの抜擢(ばってき)であった。翌五年文武学校掛を命じられ、ようやく知行五〇石となる。政権交代後、真田志摩が発した倹約令は昭道が起草したと伝えられている。同六年一月真田幸貫の病中ならびに没後の財政事務の功績にたいして賞をうけている。
六年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航した。前述したようにこのとき、家臣の出府や御殿山(ごてんやま)の警衛などをめぐり、佐久間象山ら恩田頼母派と政権をにぎっていた長谷川昭道ら真田志摩派とはするどく対立した。そこにあとでみる「仮養子一件」が起こり、同年十一月昭道らは藩政からしりぞけられ、恩田頼母派が復帰するにいたった。
前記のように佐久間象山は安政元年(一八五四)、吉田松陰の密航事件で松代蟄居(ちっきょ)となり、以後長く軟禁状態に置かれた。それとはやや異なっているが、長谷川昭道も恩田頼母政権下では仮養子一件もあり、藩政に口出しすることもできなかった。そんな状況に憤慨して、安政六年六月、江戸へ行き藩主真田幸教(ゆきのり)に訴えたが受けいれられず、親戚の家にお預けの身となる。翌文久元年(一八六一)四月二十九日、藩主に直訴して藩政改革を謀(はか)ったとの理由で、蟄居を命じられた。
文久二年に蟄居を解かれた佐久間象山は元治(げんじ)元年(文久四年、一八六四)三月十七日、幕府の「海陸御備向掛(おそなえむきかかり)」として京都へ向かう。機を同じくして長谷川昭道も四月一日蟄居を解かれ、同月五日に京都へ向かう。昭道は四月十七日に京都鴨川(かもがわ)の借家にいる象山を、同行した北沢正誠・大日方直方と三人で訪ねたが、面会を拒絶された。象山は同年七月に京都で暗殺されるが、昭道は京都、江戸を行き来し、このあと大政奉還から王政復古への激動のなかで、松代藩論を勤王に統一していく立役者として活躍するのである。