嘉永五年(一八五二)閏(うるう)二月二十日、藩主真田幸貫(ゆきつら)について家老から郡奉行につぎのように告げられた。「殿様(真田幸貫)は先年御不快につき老中を御辞職なされた、それいらい病気が重なり、去る酉(とり)年(嘉永二年)冬中から頭痛などで長々と引きこもられた、追々血気も弱くなられ長く勤めることがむずかしく、隠居と家督の願いを公儀へ出された。もっとも、しばらくのあいだは藩政に心遣いされる由である」(『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下も同文書による)。
幸貫は天保十五年(弘化元年、一八四四)五月十三日、幕府老中を辞職している。これは天保改革の挫折にもよるが、体調をくずしたという事情もあった。弘化四年(一八四七)の善光寺地震は、松代藩にとって未曾有(みぞう)の大災害をもたらした。地震の復興を病気がちの幸貫が藩地松代で陣頭指揮することはできず、家老以下家臣に任せざるをえなかった。幸貫の病気が重くなったのは、地震から二年後の嘉永二年の冬からであった。嘉永五年になると、よほど病状が悪化したと思われ、幕府へ隠居と家督相続の願いを出す。幸貫には文化十一年(一八一四)生まれの嫡子幸良(ゆきよし)がいたが、天保十五年早世していた。嘉永五年五月六日、孫の真田幸教(ゆきのり)に家督相続が認められ、それから一ヵ月もたたない六月三日に幸貫は江戸で死去した。
真田幸教は天保六年(一八三五)二月十三日生まれ。祖父の幸貫から家督を継いだときは一八歳でまだ若かった。幸貫が老中を辞したあとの最晩年、弘化・嘉永の藩政をやゆした左のちょぼくれがある(『松代町史』下)。
天下の人民泣かせたお罰か、先祖やなんどの咎(とが)めであったか、希代(きたい)不思議の地震の変災、さすがの親父(おやじ)(幸貫)も大(おおい)に弱つて、拝借・地借で時の間尺(ましゃく)は合わせて見たれど、末の始末の見込もねい(ない)から、家中へ存念訊(たず)ねた処が、代官深美(長谷川昭道)が発言したとか、領内人別課税を言付け、四、五年ためたる借金払つて余程の金子が出来そなものだと、また/\持病の慾心発(よくしんおこ)つて、役中使つた借金までをも償ふつもりで、死亡の家族の為めじやと、銭のいらない施餓鬼(せがき)をさせたり、一尺ばかりの塔婆(とうば)をくれたり難有(ありがた)涙のこぼれる仕かけに、餌食(えじき)を飼ひ置き追々乗せかけ、地震と水とに痛んだ百姓救ふ手段と、御為ごかしの弁ばか振(ふる)つて、課業と名付(なづけ)て男よりして月々百文、女もゆるさず三十二文めつたに取(とる)故、領内気向きが甚だよくない(中略)、彼是(かれこれ)ごたやたやらかす其中(そのうち)、自分はお好きなお江戸に居続け、屁(へ)くさい鉄砲やたらと打せて匂(にお)ひがわるくて鼻持ちならねい、人のいやがる察しもねいのか、余り尾籠(びろう)に屁をこくこと故、することなすこと評判わるさに、病気と言立てしやがんで見れども、お胸がどき/\落付きねいから、志摩(しま)(真田志摩)めを呼び出し談じた処が、こいつはしめたりおいらが出はじやと思案をめぐらし、是は何んでも盛んに勤むる家老や奉行に、わるいくさみを背負はせつけるが、一つの手段と生まれ付いたる残忍薄情、年来勤めた家来を追ひ込め、奉行共をも矢たらと引替(ひきかえ)、余りな一概無徹をする故、人々驚き悪口雑口、落首(らくしゅ)を詠むやらそこらこゝらへ張付(はりつけ)するやら、志摩が屋敷へ付火(つけび)をするやら(下略)
弘化四年(一八四七)の善光寺地震は病気がちであった幸貫に追い打ちをかけることになり、幕府から多額の借財をしている。復興資金を得ようと新たに課業銭の賦課を嘉永元年(一八四八)から五年間の計画ではじめた。右のちょぼくれには代官長谷川深美の発案とされている。幸貫は地震の被災者にたいして施餓鬼をしたり、塔婆を配布したりしている。地震は藩財政をさらに逼迫(ひっぱく)させることになり、藩の政権交代をうながした。嘉永四年五月、恩田頼母らに代わって真田志摩と鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)が家老になるとともに藩政をにぎった。ちょぼくれには「病気と言立てしやがんで見れども、お胸がどき/\落付きねいから、志摩めを呼び出し談じた処が、こいつはしめたり」と、登用のようすがやゆされている。幸貫は地震の復興を見ずして、嘉永五年六月三日に亡くなっている。
真田幸教が祖父幸貫から家督を継いで二年目の嘉永六年六月、ペリーが来航した。この来航への対応をめぐって、江戸にいた佐久間象山と、家老真田志摩・鎌原伊野右衛門、郡奉行をしていた長谷川深美(昭道)らとが対立したことは前述した。このようなときに「仮養子一件」が起こった。
仮養子一件とは、藩主幸教には嗣子(しし)がまだなかったので、万一幸教が亡くなった場合に備えて家老真田志摩の倅(せがれ)を仮養子と設定しておき、家督を相続させようとの考えであった(『更級埴科地方誌』③上・『松代町史』上)。この考えは家老の望月主水(もんど)と真田志摩とのあいだで話がかわされ、長谷川深美も承知していた。嘉永六年五月一日、花の丸御殿が焼失したが、仮養子の件はその前に御殿に集まった長谷川深美・岡野荘蔵・磯田音門(おんもん)・磯田小藤太(ことうた)のあいだで出された話であった。その話が藩主真田幸教を押しこめ、一〇万石を奪おうとするものだとの風説になり、藩主の耳にも届くところとなった。御側役(おそばやく)高山内蔵進(くらのしん)が幸教の食事の毒味をすることもあった。同年九月、佐久間象山は江戸目付の一場茂右衛門(いちばしげえもん)を同道して前藩主幸貫の兄弟である桑名(三重県桑名市)藩主松平定和に会い、藩の政情を訴えた。象山は一場茂右衛門への手紙(『象山全集』④)で、これは高山内蔵進より出た「奸言(かんげん)」であり、長谷川昭道に使われ、引き入れようとする意図からであったと書いている。いっぽう、長谷川昭道は前記した安政六年の幸教への直訴のなかで、磯田小藤太の「造言」であり、佐久間象山の「偽作」であると述べている(『長谷川昭道全集』下巻)。十月家老真田志摩は免職となり、藩債(はんさい)調達のため大坂にいっていた長谷川昭道はよびもどされ、十一月二十五日免職謹慎となった。七年余たってあらためて文久元年(一八六一)四月二十九日、仮養子一件で長谷川昭道は蟄居、磯田小藤太は退役のうえ蟄居を申し渡された。このとき高山内蔵進はすでに死亡し、佐久間象山は蟄居の身であった。
嘉永七年(安政元年、一八五四)一月のペリー再来航より松代藩は横浜警衛を命じられたが、三月半ばで終わった。真田幸教は六月にはじめて松代に入部した。翌二年六月に出府し、ほぼ隔年ごとに在城と出府を繰りかえす。文久三年(一八六三)イギリス船が江戸湾に来航したときには横浜警衛を命じられ、三月二十一日幸教みずから松代から藩兵を率いて出府している。翌元治元年(文久四年、一八六四)今度は京都警衛を命じられ、幸教は藩兵を率い六月十四日松代を出発し、二十八日に京都に着く。ついで、長州征伐のため大坂警衛にかわり、大坂警衛から松代へ帰ってきたのは元治二年(慶応元年)二月二十日であった。幸教が藩主であったときの大きな幕府課役には、横浜・京都・大坂の警衛のほかに、文久元年(万延二年)和宮東下のときの中山道の警護がある(本章三節参照)。
幸教は慶応二年三月九日、宇和島藩(愛媛県宇和島市)伊達宗城(だてむねなり)の二男保麿(やすまろ)を養嗣子に迎え、家督を相続させた。保麿は幸民(ゆきもと)とあらため松代藩最後の藩主となる。幸民は四月に上京し、御所の朔平門(さくへいもん)の警衛にあたる。