既述のように、藩主真田幸貫(ゆきつら)の晩年になると、松代藩内では派閥抗争が激化する。幸貫の病気が重くなってきた嘉永四年(一八四七)五月十一日、真田志摩(しま)・鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)が家老に就任した。同年十月十五日恩田頼母(たのも)が家老職を罷免され、真田志摩に藩財政をになう「御勝手掛」が命じられた。藩の実権が恩田頼母派から真田志摩派に交代となった。
その嘉永四年十月二十四日、家老から郡奉行あてにつぎのようなお達しが出された。「御政事向きの儀につきこの節種々の雑説取り巧み申し触れ候由、不埒(ふらち)の事に候」とし、召し捕らえ吟味するのでそのように心得、郡中へ触れるようにせよとの指示であった。善光寺地震で藩は甚大な被害をこうむったが、地震の復興政策をはじめ、藩政を進めてきたのは恩田頼母派であった。藩財政は逼迫(ひっぱく)し、民心も揺らぎすさんできていた。不穏の動きも起こり、同年十一月に嘉永山中(さんちゅう)騒動が発生している。そんな状況のときの政権交代である。政権をになった真田志摩らは、厳罰をもって臨む姿勢を打ちだした。幸貫の改革を批判した前掲のちょぼくれ(『松代町史』下)のつづきでは、「(上略)この上何とか噂(うわさ)評判言い出た奴(やつ)をば早速召し捕り、きびしき咎(とが)めにあはしてくれると、領内一統ふれ出(いだ)す故、胸には山々言ひ度(たく)思へど、その後は目顔で話をするのみ、人の口をばしつかとふさへ(い)で、世間へ向てはよい顔なさんと、繕い偽る化(ばけ)の尻尾(しっぽ)が中々隠れず、山中村々騒動起(おこ)つて外聞わるさよ、それでも上から御沙汰もねい故よい気なもんだよ(下略)」と、やゆしている。
ちょぼくれにある山中騒動は、嘉永四年十一月十六日の夜八幡(やわた)村(千曲市)からはじまり、大岡村(大岡村)、田ノ口村・赤田村(信更町)へ押しだした騒動である。騒動の背景には課業(かぎょう)銭にたいする不満があった。課業銭は嘉永元年から同五年までの五年間の予定であったが、一年短縮して同四年までの四ヵ年でとりやめになった(一三章四節四項参照)。真田志摩・鎌原伊野右衛門らの真田派が政権をにぎるとともに廃止したのである。このことをやゆした落首がある(『松代町史』下)。
伊野志摩が出来(でき)て課業がやめになり
のちに藩政からしりぞけられた鎌原伊野右衛門の嘆願書では、課業銭政策を「その銭を奸商(かんしょう)等の手に渡し、質物(しちもつ)を取り扱わせ、御徳儀を損い、領内の民心を離反させた」と批判している。
勝手方家老となった真田志摩は、翌嘉永五年正月十五日、郡奉行の山寺源大夫に水害・干害や飢饉(ききん)への備えについての考えをつぎのように伝えている。飢饉に備えて各村々に社倉(しゃそう)を設けさせたのは「御上(幸貫)御初政より格別」に力を入れ、「各先輩においても心配」なことであるが、「実心より世話致さず候ては」なかなか行き届かない。よって第一に天保四年(一八三三)から六年、七年の御囲い俵数、第二に郡中村々の社倉囲い殼の総数をそれぞれ調べ、そのうえで「代官の厚き心」をもって囲い殼の積み増しをはかり、「御初政よりの厚き思(おぼ)し召し」にこたえなければならない、との趣意であった。
真田志摩はまた年貢のことを下達した。まず、「年々の惣御収納辻をもって、年中の籾・米・御金の御入料を積算し、どれほど不足するかを掌握したうえで、何分御取り続きのできるようまず心掛け、御勝手向き(財政)立て直しの仕方を工夫することが肝要」とする。より具体的には、①村々の起こし地の免相(めんあい)、御手充(おてあて)引きの仕方、地押し検地の願い出、籾・米滞り物、内借りの渡し方、御飯米・江戸御飯米の買い上げ、②月割り以外の納め金、③村々の納め辻、このそれぞれについて、御勝手元〆一人だけでなく同役同士が協議して取り計らうようにせよ、と指示している。このように真田志摩らは、恩田頼母らの政策を「旧弊御一洗(きゅうへいごいっせん)」と称してあらためるが、その中心は支出の見直しをはかる緊縮政策にあったといえよう。
真田志摩らが緊縮政策を進めはじめた矢先、嘉永六年六月ペリーが来航する。先にみたようにそれへの対応をめぐり、佐久間象山らと鋭く対立したところへ「仮養子一件」が起こり、真田志摩・鎌原伊野右衛門・長谷川昭道らに代わって恩田頼母派が復権する。真田志摩が「旧弊御一洗」を策した改革は二年と六ヵ月あまりで頓挫(とんざ)し、見るべき成果をあげえなかった。恩田派の政権はこのあと約一〇年つづき、文久三年(一八六三)に、また真田派が政権をにぎることになる。
派閥抗争により藩政の停滞、藩財政の逼迫、さらには領民の疲弊(ひへい)や気風のゆるみがみられるようになった。藩主真田幸教は安政五年(一八五八)五月「遺訓条目」を書いた(『市誌』⑬六四)。遺訓条目は三本の軸仕立てになっている。一軸は倹約・改革などの藩政について二二項目、二軸は親子・人倫の道、家訓など四〇項目、三軸は国への対処二五項目であった。翌六年には家中倹約触れを出した(『県史』⑦八三)。
安政六年幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)から真田幸教に松代藩内の問題について達しがあった。この件で十一月、家老の小山田壱岐(いき)が出府している。このとき藩政からしりぞけられている鎌原伊野右衛門は嘆願書を出した。そのなかで、課業銭についても前記の批判を述べているが、「仮養子一件」で遠ざけられている真田志摩について「素(もと)忠義の心底にて相勤め候儀に御座候を、姦邪共(かんじゃども)のために冤罪(えんざい)を蒙り候を気の毒」と思い、黙っているわけにはいかないと訴えている。真田志摩にたいしては十一月、家老小山田壱岐が嘉永四年に「旧弊御一洗」と称して藩政改革をおこなおうとした事情について尋問した。尋問にたいして真田志摩は「いささかも私には党ケ間敷(とうがましく)申し合せ候儀御座候なく、かつ御一洗の御名目は最初御先代様(真田幸貫)より仰せいだされ候儀にて、私どもより相唱え候儀に御座なく候、それこれいちいち明証の御書き下げなど大切に所持罷(まか)りある儀に候」と答えている。鎌原伊野右衛門の嘆願や真田志摩の弁明にもかかわらず、真田志摩は安政六年三月減禄のうえ蟄居(ちっきょ)を命じられ、さらに翌々文久元年(万延元年)四月には永(えい)蟄居を命じられた。鎌原伊野右衛門も万延元年(安政七年)十二月に蟄居を命じられていた。
無断出府してまで「仮養子一件」を藩主幸教に訴えた長谷川昭道をはじめ、真田志摩・鎌原伊野右衛門らは、「仮養子一件」だけでなく、恩田頼母や竹村金吾らの藩政、とくに藩財政の不正や逼迫について批判している。鎌原伊野右衛門は、「御勝手掛り家老恩田頼母や竹村金吾らへ仕事を任せ、非常のお手当てとして積みおいた金子を貸しだしたり、その金を商人へ渡し、質物にして数万両の損金を出した」、などと訴えている。他方、批判をうけた家老らは反論を出している。訴えにたいして吟味を命じられた目付や調役(しらべやく)は、かつて郡奉行の長谷川昭道が藩財政を調べた帳簿をあらためて調べなおし、天保十二年から安政六年までの御貸し出し、御繰り廻し金、大口臨時金などを調査し、その結果数万両の損金がはっきりした。不正とみなされたこの損金について、文久三年八月九日、すでに死亡していた恩田頼母にかわって子の恩田靫負(ゆきえ)、担当奉行の竹村金吾、お金蔵に直接たずさわった高野覚之進・片桐十之進に、減禄や蟄居の咎(とが)が申し付けられた。
真田志摩・鎌原伊野右衛門は文久三年三月十九日、蟄居が解かれて藩政に復帰した。