既述のようにペリーが再来航した嘉永七年(安政元年、一八五四)三月、ペリーと幕府とのあいだで日米和親条約が結ばれた。安政五年六月には、大老井伊直弼(いいなおすけ)が日米通商条約を勅許なしで締結した。同七年(万延元年)三月三日、井伊直弼を暗殺した桜田門外の変が起きた。
幕府はペリー来航から開国にいたる過程で、京都の朝廷(天皇・公家)にたいして、ペリー来航の報告をしている。ペリー来航、条約締結、開国を契機に、朝廷が政治の表舞台に登場してきたのである。
条約締結の問題は将軍継嗣問題、井伊直弼暗殺事件にまで発展するところとなり、藩によっては藩内にも分裂や対立を生みだすにいたった。幕府を擁護する佐幕(さばく)派、開国して外国との通商をすすめようとする開明(国)派、鎖国を守り外国の勢力を排除しようとする攘夷(じょうい)派、朝廷(天皇)を重んじようとする尊王派、幕府と朝廷との協力一致をはかって国難を処理しようとする公武合体派など、さまざまな考えが渦巻く状況になってきていた。公武合体を具体化したのが、文久元年(一八六一)孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍家茂(いえもち)に輿入(こしい)れさせた和宮降嫁(こうか)である。
そのあと、京都では公武合体派の勢力にかわって三条実美(さねとみ)・岩倉具視(ともみ)らの急進尊王攘夷派の勢力が増してきていた。そこで、幕府の京都守護職である会津藩主松平容保(かたもり)と攘夷派から公武合体に変わってきた薩摩藩とが同盟し、文久三年八月十八日、三条実美・岩倉具視ら七公卿(くぎょう)と攘夷派の長州藩を京都から追放した。
佐久間象山は嘉永七年四月の吉田松陰(しょういん)密航事件いらい松代に蟄居(ちっきょ)していたが、ひそかに象山に会いに来る志士もいた。長州藩士でのちに奇兵隊(きへいたい)を創設する高杉晋作(しんさく)は万延元年(一八六〇)、吉田松陰の遺書をたずさえて、九月二十二日象山に会っている(『象山全集』①)。松代藩には象山の蟄居赦免への動きはみられなかったが、長州藩は蟄居の身である象山の招聘(しょうへい)に動いている。文久二年十一月、長州藩江戸留守居役が「真田信濃守様家来佐久間修理(しゅり)、右修理ことは方今(ほうこん)皇国多事の時節ひとかど御用に相立つべき人物にこれあり候ところ、富次郎(吉田松陰)連座にて蟄居仰せつけられ候段、大膳大夫(だいぜんだいぶ)(藩主毛利敬親)において気の毒至極に願い居り候」として、蟄居赦免の願書を幕府に出している(松本健一『評伝佐久間象山』)。佐久間象山の蟄居が解かれたのは、同年十二月二十九日であった。土佐藩からも招聘の使者が来ているが、ともに実現するにいたらなかった。
いっぽう、長谷川昭道は安政五年継子の美哲に家督を譲って隠居する。翌安政六年六月無断出府して、藩主幸教に「仮養子一件」などを訴えたことは前述したとおりである。昭道の場合は一〇年あまり恩田派が政権をにぎっていたため藩政にたずさわることができなかった。元治元年(文久四年、一八六四)四月一日、長谷川昭道も蟄居を解かれた。前年の文久三年に恩田派から真田志摩派に政権が交代したことにもよる。
元治元年(文久四年)三月十七日、佐久間象山は尊王攘夷派と公武合体派の抗争が渦巻く京都へ向かって、松代を出発した。あとを追うように長谷川昭道も四月五日に京都へ向かった。象山が京都へ行くことになったのは、三月七日に「御用の品もこれあり候間、早々上京申し付くべきむね公儀より御達しこれあり候につき、上京仰せつけられ候、早速出立すべく候」と、幕府の上京命令が藩から象山に伝達されたからであった。駕籠(かご)一挺(ちょう)、本馬(ほんば)一匹と若党二人をともなっての上京である(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
象山の上京にあたって、都合によりいっしょに上京できなかったものもいる。宮沢恒左は「当春中佐久間修理様京都へ御召し御用御出馬の砌(みぎり)、私儀御用役相勤めたきむね御内願御申し上げ成しくだし置かれ、すでに御聞き済み成しくだし置かれ候」と、京都へ随行するはずだった。しかし、家内や近親のものと相談したところ、「倅(せがれ)等幼少のことゆえ、遠方詰め御奉公相勤め候えば妻子ともゆくゆく難渋」と反対され、赦免願いを出している(東福寺 宮沢彰正蔵)。
象山の松代出発から京都での暗殺までの概略はつぎのようである(『象山全集』①)。元治元年三月十七日夕七ッ時(午後四時ごろ)松代出発、木曽路より大垣(岐阜県大垣市)を経由して、二十九日に京都に着く。四月十日はじめて山階宮(やましなのみや)に謁し時勢を言上(ごんじょう)する。山階宮は弟の中川宮を助けて、朝廷の国事御用係をしており、公武合体派とみられていた。象山は山階宮と四回ほど、弟の中川宮とは三回ほど会っている。とくに山階宮とは開港のこと、天下治平のことなどを述べ、献策している。翌々日の四月十二日には一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と会い、時勢を論じ幕府の従来の政策を批判する。一橋慶喜は将軍後見職として京都に来ていたが、象山が会ったときは将軍後見職を辞して、新設された「禁裏守衛(きんりしゅえい)総督」と「摂海防御(せっかいぼうぎょ)指揮」の職にあり、のち徳川幕府最後の第一五代将軍徳川慶喜となる。五月一日には、はじめて京都に来ていた将軍徳川家茂(いえもち)に謁している。六月二十五日には、追放された長州藩兵が京都嵯峨(さが)天龍寺へ入るとのうわさがひろがり、象山は馬で実情を見にいく。六月二十七日の夜、この日大津(滋賀県大津市)に到着した藩主真田幸教(ゆきのり)に謁し自説を献策するが、藩論は尊王攘夷に決していたため取り合われなかった。また、彦根城(大津市)を守る衛士(えじ)と掛けあったが要領を得ずして、京都へ引き返した。七月四日、松代藩が本陣としていた京都の仏光寺で藩主幸教に謁する。七月十日、山階宮家からの帰途、三条木屋(きや)町で暗殺される。
暗殺されたときのようすは、象山の従者らの報告がある(『県史近代』①二八)。象山は七月十一日未(ひつじ)の刻(午後二時ごろ)お供に塚田五左衛門と坂口義次郎、馬の口取りの半平、草履(ぞうり)取りの音吉の四人を引きつれて山階宮を訪ねた。しかし、留守で会うことができなかった。帰路、塚田五左衛門を帰らせ、三人をしたがえて松代藩の家臣がいる本覚寺に蟻川賢之進(ありかわけんのしん)を訪ねたが、こちらも留守であった。やむをえず帰途の途中、「寺町通りを御上がり三条通りを経、木屋町へ御入りのところ、何(いず)れの士にや髪結所(かみゆいどころ)の前に両人待ちおり、それとも知らず罷(まか)り通り候ところ、御馬に添い十間ほど来たり、俄(にわか)に左右より切り懸かり候、御蹴散(けち)らし御駈(か)け通り御座候えども、高階(たかしな)家の辺りに至り、兼ねて待ち伏せ致し候と相見え、また三、四人飛びだし左右より切り懸かり申し候、御刀御抜きはなし御打ち合いあそばされ候ところ、重ねて橋向うより五、六人走り出、一人手早く左の御膝もとへ廻り十分に切り、なお御支え御座候えども御深手の上多勢の剣先ゆえ、ついに御落馬あらせられ候」と、坂口義次郎は報告している。象山を暗殺したのは肥後(ひご)(熊本県)藩士で肥後勤王党の河上彦斎(げんさい)と隠岐島(おきのしま)出身の草莽の志士(そうもうのしし)松浦虎太郎(とらたろう)の二人であった(松本健一『評伝佐久間象山』)。坂口義次郎の報告にもあるように暗殺には二人だけでなく大勢の志士たちがかかわっていた。
佐久間象山は幕府の「海陸御備向」係として、幕府と朝廷(天皇・公家)とが協力して国政にあたろうとする公武合体運動を強力に推しすすめて難局を乗りこえ、開港(開国)をしていかねばならないとの考えであった。そのため、朝廷の中川宮やその兄の山階宮に働きかけをしていた。さらに象山は、天皇を攘夷派ににぎられないために彦根城に移し、そのあと江戸へ移すという策をたてた。六月二十七日に藩主幸教が大津へ到着したとき、この考えを献策したが、受け入れられなかった。彦根遷都の考えは象山だけでなく、当時新たに設けられた京都守護職であった会津藩主松平容保(かたもり)の家臣広沢安任(やすとう)(富次郎)も同じ考えをもっていた(星亮一『幕末の会津藩』)。象山は広沢安任らと密議をかわしていた。象山のこのような考えや行動にたいして、京都に大勢集まってきていた急進攘夷派はこころよく思っていなかった。象山は攘夷派の奔流(ほんりゅう)に呑みこまれてしまったといえよう。