須坂藩は文化二年(一八〇五)、領内御用達商人に才覚金五九〇二両の調達を命じている(『長野県上高井誌』歴史編・廣瀬紀子『須坂藩主堀家の歴史』。以下断わらない限り同じ)。
九代藩主堀直晧(なおてる)のときすでに藩財政は逼迫(ひっぱく)していた。直晧の三男直格は文政四年(一八二一)一一代藩主になると家老に丸山巨宰司(こさいじ)をとりたて藩政改革をすすめた。おもな改革は、①武術をさかんにし士風を興隆、②質素倹約と一日一文の貯蓄の奨励、③年貢の先納と行政費の削減、④大砲の鋳造、⑤藩校立成館(りっせいかん)の創立などである。なお、直格には古今の画家の伝記を集成した『扶桑(ふそう)名画伝』五三巻の大著がある。
直格は弘化二年(一八四五)子の直武(なおたけ)に家督をゆずって隠居した。直武は丸山巨宰司の子舎人(とねり)を家老に登用し、須坂藩御庭焼(吉向焼(きっこうやき))を鎌田山山麓(かんだやまさんろく)ではじめさせ、さらに薬用人参の栽培を奨励し殖産興業政策をすすめたが成功しなかった。また、嘉永三年(一八五〇)心学者の石田知白斎(ちはくさい)(小右衛門)を京都から招き、藩財政の改革をさせた。須坂藩は信州諸藩のなかでも心学の盛んなところで、安政三年(一八五六)には家臣の丸山与兵衛に命じて領内を回村させ心学道話をおこなわせている(『県史』⑧六六六)。同年十二月に出された「改革規定書」(『県史』⑧一三三)には質素倹約、参勤交代は金二一〇両で済ませることなど一〇ヵ条が示されている。石田小右衛門と家老丸山舎人の改革は、藩財政をあまり好転させることができなかった。石田小右衛門は須坂を去り、丸山舎人は失政の責任をとって引退した。なお、舎人は好著『三峰紀聞(さんぽうきぶん)』を書いている。
このあと一二代直武のもとで改革にあたったのが、要職を独占した家老の野口源兵衛と河野連(むらじ)らであった。野口・河野らの改革は石田・丸山舎人がすすめた政策とは反対の積極策であった。①領民に貸し付け金をする金貸し会所の設置、②御用金の賦課と苗字(みょうじ)・帯刀御免などの多発、③日滝道・相森(おうもり)道・八幡(はちまん)道の整備などの土木工事である。積極策は賄賂(わいろ)の横行を招いた。文久元年(一八六一)十二月の土屋坊(どやぼう)村(朝陽南屋島)の民蔵の直訴状では、「本村と賄賂争いに相成り」とか「御役人の進退までも賄賂にて相済む」ようになり、難渋のもととなっていると訴えている(『県史』⑧一三九)。この年の十一月六日、直武に代わって弟の直虎(なおとら)が一三代藩主についた。
直虎は文久元年十二月十五日、領内村々へ三ヵ条の布達を出した。①当年の年貢・運上を免除、②これまでの貸し付け金は残らず免除する、③御用金・献金の未納分は免除する、であった。翌文久二年二月までに野口源兵衛ら四人の切腹(須坂三ヵ寺の助命嘆願により追放)をはじめ三九人を処罰した。
飯山藩にとって弘化四年の善光寺地震の被害は甚大であった。被害は藩財政を逼迫させた。地震の二年後には領内の豪商や豪農に「御用達へ臨時御用金をお願いする時節であるが、月割り金がかさみ銘々災害をうけ差し支えもあるので」として、金一〇〇〇両取りの融通頼母子講(ゆうづうたのもしこう)の領主無尽(むじん)をはじめている(『県史』⑧二二)。
寛政四年(一七九二)から高井・水内郡一一ヵ村を領した越後椎谷(しいや)藩(新潟県柏崎市)も、財政窮乏は他藩と同様であり、領内村々や豪農商に御用金や才覚金を割り当てている(『県史』⑧五八八・五九七・五九八・六〇一・六〇二)。とくに問御所村(鶴賀問御所町)の久保田新兵衛は、何回も多額の御用金を調達したり献金したりしている。