松代藩の京都警備と夫役

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公武合体の構想を具体化させたのが、第三節で述べたように文久元年(一八六一)の和宮降嫁(かずのみやこうか)であった。文久三年(一八六三)三月、二三〇年ぶりに将軍家茂(いえもち)が上京し、三月十一日には孝明天皇の京都賀茂(かも)社攘夷(じょうい)祈願に在京諸大名とともに随行した。四月十一日にも石清水(いわしみず)八幡社行幸がおこなわれたが、家茂は病気を理由に供奉(ぐぶ)しなかった。

 将軍家茂は江戸へ帰るが、将軍後見職の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)をはじめ諸大名は京都に在陣するようになる。文久三年四月には朝廷の要求により、幕府は一〇万石以上の大名による京都警衛を交代でおこなう勤番の制度を定めた。松代藩は翌元治(げんじ)元年(文久四年、一八六四)三月に、七月から九月までの京都警衛を命じられた。藩主真田幸民(ゆきもと)は六月十四日、家臣や御用夫一六〇〇人余を率いて松代を出発した(片岡志道『見聞録』真田宝物館蔵)。出発したその日は桑原宿(千曲市)で昼休み、青柳(あおやぎ)宿(東筑摩郡坂北村)で泊まっている。一行は善光寺道、中山道を西進し、二十七日に大津宿(滋賀県大津市)に泊まり、二十八日京都仏光寺に到着し、ここを本陣とした。家臣の久保四郎は「長々の道中だったが、雨具を用いたのは二度ばかりで、炎暑であったが歩くには都合よかった」と上京のようすを手紙に書いている。番士五七人、足軽一二〇人や武具方などは京都の本覚寺を借りたが「大混雑」であった。さらに「長州人入京一件」で「物騒(ぶっそう)」であるとも書いている。

 松代藩は仏光寺を拠点として御所南門の警衛にあたることになった。警衛の番所が狭いうえに、破損しているのを、朝廷に願いでて修復している。南門警衛について、六文銭の旗印にひっかけたつぎの狂歌が残されている(『松代町史』下)。

  なんもん(南門)と相場の立たぬ御所がきをただ六文で安くかためる


写真20 仏光寺 松代藩京都警衛の本陣
  (京都市下京区)

 南門の警衛は、御番士二〇人、番頭(ばんがしら)一人、物頭(ものがしら)二人、小(こ)頭二人、足軽五〇人が弾薬四荷(か)を備えてあたる規定だったが、このとおりにはなかなか勤められなかった。松代藩は京都警衛から転じてさらに大坂警衛を命じられる。それに従事した足軽の高田法正が著した「陣中軍事記」(『大平喜間多収集文書』長野市博蔵)から警衛のようすを引用してみよう。「陣中軍事記」は三冊あったと思われるが、松代出発から佐久間象山暗殺の七月十一日をふくむ一冊目がない。二冊目は七月十八日からとなっている。文久三年七月、京都から追放された長州藩がふたたび京都へ侵入してきて、七月十九日に御所の蛤御門(はまぐりごもん)攻防の戦い(禁門の変)が起こる。そのときの記述を抜粋してみよう。

○(七月十八日)南門御番所当番にて出番致しおり候ところ、白中(昼)(はくちゅう)は何の事替わり候儀もこれなく候、昼後七ッ時頃(午後四時ごろ)より何か一向相分からず候えども、動揺の様にて候、(中略)夜八ッ時過ぎ(午前二時ごろ)所司代越中守(しょしだいえっちゅうのかみ)(桑名藩主松平定敬(さだあき))様より御使者到来、右は今晩何か騒々しく御座候間西番厳重相勤め候様お達しこれあり、この騒ぎにても御番頭初め御物頭両人寝居り候て、如何(いか)にも取り計らい方宜(よろ)しからざる様存じ候、(中略)唯々(ただ)物見の者差し出し候ところ、蛤御門前におよそ百人ほど、切火縄にて何(いず)れも鉄砲持参にて甲冑(かっちゅう)あるいは小具足(こぐそく)にて罷(まか)り在り、何れの御人数と相尋ね候ところ一向無言にて罷り在り候、右持参の提灯相見候ところ、一に三ッ星、左候上は長州藩と存ぜられ候、(中略)

○(七月十九日)朝六ッ時前(午前六時ごろ)蛤御門辺にて頻(しきり)に放(砲)発、下立売(しもたちうり)辺にても同断打ち合いに相成り、段々穿鑿(せんさく)仕り候ところ全く蛤御門にての戦争は如何にも大戦いにて、会津侯御人数防ぎ兼ね候やにて相崩れ、(中略)堺(さかい)御門にての戦争の節、この方様(松代藩)にても御人数御差し出しの御差図候えども、一向御人数出も御座なく候、(中略)

  南御門の方しばらくの内御免にて、石薬師御門御固め仰せ付けらる、(中略)この(松代藩の)御足軽全く五拾人のところ二十五人より外これなく、鉄砲は五拾挺に候えども持つ人これなき次第など、誠に不出来の至りに候、(中略)

○(二十日)まず穏には候えども、市中放火にて火勢盛んにて闇の如し、(中略)昼頃中立売り、下立売り、蛤御門、堺御門辺探索に一廻り相廻り候ところ、所々の死人には閉口仕り候、

○二十一日、別条なく暁火鎮まる、

 禁門の変の火事で本陣にしていた仏光寺は焼失したが、足軽らが在陣していた本覚寺は焼失をまぬがれた。仏光寺にかわり大仏養源院を本陣とした。

 八月に入り、十日松代藩は幕府から大坂警衛を命じられた。高田法正は前出の「陣中軍事記」に、「御上大坂御警衛仰せこうむられ候、誠に苦々しき御書付振りの由、さりながらまずまずの仰せをこうむられ候て安心、虎口を逃れ候心持ちに相成り候」、と記している。大坂警衛を命じられてから三日後の八月十三日、江戸で長州征伐の先鋒(せんぽう)を命じられた。京都にこの知らせがもたらされたのは十六日であった。日記には十九日の項に「十九日雨天、風邪にて平臥、暁七ッ時頃(午前四時ごろ)藤田・岡本両氏早乗りにて、御奉書の次第、長州征伐先鋒仰せこうむらる」と記している。大坂警衛への具体的な動きは二十四日ごろから始まっていて、家老真田志摩の指示で大坂伝法村(大阪市此花区)へ調べ役や下目付が出かけている(「大坂御警衛日記」『真田家文書』真田宝物館蔵)。二十六日天保山(大阪市)へ異国船が来たということで、番頭などが評議して大銃方(おおづつがた)が出ていった。高田法正は二十七日に「長州先鋒御免、大坂表御固めの仰せこうむられ候、まず安心つかまつり候」と書いている。長州征伐先鋒が正式に御免になるのは九月十五日である。

 大坂警衛は最初、①尼崎(あまがさき)街道番所、②伝法川船改番所(船関)、③南伝法村番所と④常吉(つねよし)新田御台場であった。船関と御台場は九月二日に松代藩に引き渡された。藩主真田幸教は九月二十九日、京都から大坂へ出発している。大坂では太融寺(たいゆうじ)を本陣としている。


写真21 太融寺 松代藩大坂警衛の本陣
  (大阪市北区太融寺町)

 松代の国元を遠く離れての警衛の大変さを思う気持ちは、藩主の母方貞松院(ていしょういん)も同じであった。十一月五日警衛している藩主や藩士たちへ一通の歌がもたらされた。江戸から松代へ移った貞松院は、家老の望月帰一郎宅に仮住まいをしていた。十月十五日に邸宅ができたので移転したが、仮住まいには歌が置かれていた。

  今宵(こよい)まつ 光を見ても忍ふらん

     いくよかりねの 望月(もちづき)のやど

 藩主幸教は元治二年(慶応元年)二月十三日本陣の太融寺を出発し、十五日京都の養源院に入る。しばらく京都に在陣したあと、二十一日京都を出発し三月四日松代に帰った。正式に大坂警衛が免除されたのは四月七日で、二十六日に①常吉新田御台場、②布屋(ぬのや)新田屯所、③船関、④南伝法村番所、⑤北伝法村番所の五ヵ所を引き渡した。

 松代藩の京都警衛と大坂警衛には、多くの御用夫が徴用された。南原村(川中島町)・二ッ柳村(篠ノ井)・布施高田村(同)三ヵ村の御用夫倉右衛門は慶応二年四月、御用夫請状を村役人に出している(昭和小学校蔵、長野市博寄託)。それによると、京都での一日の給金は銀六匁五分、往復の一日あたりは銀七匁五分と取り決めている。徴用された御用夫にとって、戦いがなく平穏無事であることが一番であるが、禁門の変のような合戦に遭遇すると驚きと恐怖にかりたてられたであろうことが想像される。北高田村(古牧)助太郎親助左衛門ら三三人の御用夫は、七月十九日の禁門の変の戦いの恐怖心から清水寺(きよみずでら)をへて山科(やましな)村(京都市山科区)のほうへ逃げ、さらに相談して柏原宿(滋賀県山東市)まで逃げている(『真田家文書』真田宝物館蔵)。また、下真島村(更北真島町)の百姓惣吉は藩主真田幸教の六月十四日の上京のときでなく、あとから出陣した家臣の御用夫として七月二十七日に上京し、八月七日に京都仏光寺の本陣についている。その惣吉は家に残してきた病気の母が気がかりであった。そんな折、大豆島(まめじま)村(大豆島)の源吉が京都へ私用でやってきたので、惣吉は自分と代わってもらいたいと頼んだところ承知してくれたので、九月十九日に京都を立ち二十七日に帰宅した。そうしたところ、藩の奉行所から無断で帰宅したとしてよびだされ、十月村預けの罰をうけている(岡澤由往『もう一つの六文銭』)。