王政復古と松代・須坂藩

895 ~ 896

松代藩主真田幸教は慶応二年(一八六六)三月九日、宇和島藩主伊達家(愛媛県宇和島市)から養嗣子(ようしし)に迎えた幸民(ゆきもと)に家督を譲った。三月十日、松代藩は幕府から二度目の京都警衛を命じられた。幸民は四月二十二日、江戸から家臣を引き連れて上京し、御所の朔平門(さくへいもん)の警衛についている。警衛の途中幸民は八月三日、京都をたち六日に松代に帰った。京都警衛を免じられたのは九月二十六日であった。この年の秋には松代藩邸が京都五条若宮八幡宮(京都市東山区)地内に新築されている。

 第二次長州征伐のため大坂城に来ていた将軍家茂(いえもち)は七月二十日死去し、征長も中止された。家茂のあとはいっしょに来ていた一橋慶喜(よしのぶ)が徳川宗家を継ぎ、十二月五日一五代将軍となった。徳川慶喜は翌慶応三年十月十三日、一〇万石以上の諸藩の重臣を京都二条城に集めて、大政奉還(たいせいほうかん)の可否を諮問した。この席に松代藩からは京都藩邸の留守居役長谷川昭道が列席して賛意を表明した(『松代町史』上)。翌十四日、徳川慶喜は大政奉還を表明した。

 いっぽう、朝廷は大政奉還のあと十月二十日、在京のおもな諸藩にたいして政務を諮問する。翌二十一日長谷川昭道は大政奉還に賛意を表した奉答書を提出した。諸藩とくに親藩・譜代の大名のなかには大政奉還に批判的な考えも根強く、十一月三日江戸で紀州藩から松代藩へ「同心協力兵制一致の事」が送られてきた(『松代町史』上)。紀州藩を中心とした佐幕(さばく)派のなかに松代藩を引き入れようとする動きであった。しかし、すでに松代藩は、真田志摩・高野広馬・玉川一学・長谷川昭道らの考えにより勤王に決していたので、この誘いに応じなかった。

 朝廷は薩摩藩と長州藩に討幕の密勅(みっちょく)をあたえ、十一月末に薩長両軍は京都へ入ってきていた。また、朝廷の実権をにぎった岩倉具視(ともみ)は薩長のうしろだてのなか、新政府の名において十二月九日「王政復古」の大号令を発した。ここに徳川幕府は終わりを告げたが、政権委譲は容易にいかず、翌慶応四年(明治元年、一八六八)一月三日の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)(京都府)の戦いから「戊辰(ぼしん)戦争」がはじまる。

 徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大坂から海路フランス船で江戸へ帰った。大坂から帰った慶喜をはじめ老中らの幕閣は江戸城で、さらに戦うべきとする主戦論と新政府にしたがうべきとする恭順論(きょうじゅんろん)とで論戦となったが定まらなかった。このなかに須坂藩主で幕府若年寄の堀直虎(なおとら)がいた(『長野県上高井誌』歴史編)。堀直虎は慶応三年、幕府から若年寄兼外国奉行に任じられ、藩校立成館教授の尊王論者北村方義(ほうぎ)などの就任反対があったが、十二月五日に就任していた。慶応四年一月十七日の幕閣の論議で直虎は「大軍を誘率(ゆうそつ)し京都へ馳せ登り、一戦に有無を御決しあそばされ候様、再三再四上様(徳川慶喜)へ御諫言(かんげん)御申し上げ御座候へども、上様には御答えもなく御退座」(『県史』⑧一四七)となり、廊下に出て切腹をした。この切腹にたいして「一家中の悲歎筆紙に留めがたく候」と藩の祐筆(ゆうひつ)野平は日記に記している。