幕末諸藩の動向

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安政七年(万延元年、一八六〇)三月三日、既述のように大老井伊直弼(なおすけ)が暗殺された桜田門外の変が起きている。上田藩はこの事件のあと桜田門の警固をおこなっていた。さらに麻布(あざぶ)善福寺(東京都千代田区)を警固している(『県史近代』①七〇)。文久三年(一八六三)八月には、江戸城竹橋御門の警固のうえにさらに西丸御門の警固を命じられている。このように江戸での警固が重なったとみえ、十二月四日幕府に「手軽の御場所」へ替えてくれるように願いでている。

 上田藩は中之条代官所(坂城町)から、万一狼藉者(ろうぜきもの)や無宿者(むしゅくもの)が領内に入ってきたときの防止人数を出してくれるように頼まれている。幕府からも元治元年(一八六四)、幕府領の非常の備えとして、近隣の藩へ「助勢の儀御達し」が出され(『県史近代』①七二)、中野代官所(中野市)へは松代藩と飯山藩、中之条代官所へは松代藩と上田藩、御影(みかげ)代官所(小諸市)へは小諸藩と田野口藩とされた。

 塩崎知行所は元治元年十一月二十日、水戸浪士隊が中山道を進軍し和田峠で高島・松本両藩との合戦になったことをうけて、取り締まり触れを出している(篠ノ井塩崎 清水政子蔵)。①村々の人別は今日より他村へ出てはいけない。②村役人や帯刀御免の者は刀槍(とうそう)を持参し村ごとに詰め場を建て昼夜見回りをすること。③村々の出入り口の警固の番をすること、などであった。

 飯山藩は元治元年十一月、非常囲い穀と軍役夫人(ぶにん)用意を村々に命じた(『県史』⑧一一五)。翌二年正月さらに、①籾一〇〇〇俵を非常用に積み置くこと。②急夫人の指示があったら差しだせるように準備しておくこと。③諸色高騰(しょしきこうとう)の折、奉公人給金や諸職人作料などを引き下げること、などを申し渡している。