天変地異

898 ~ 903

寛保(かんぽう)二年(一七四二)の「戌(いぬ)の満水」は、前述のように、平安時代の仁和(にんな)四年(八八八)の水害と匹敵するといわれるほどの歴史的大水害であった(九章一節一項参照)。この水害によって河床が上がり水害は恒常化してくる。また、地震では弘化四年(一八四七)の善光寺地震が善光寺平では最大の地震であった(九章三節参照)。地震のあとの水害とあわせると未曾有(みぞう)の災害となり、松代藩財政をいっそう逼迫(ひっぱく)させていった。

 安政二年(一八五五)八月の千曲川の満水のようすを、川田村(若穂)西沢又右衛門は「御用書留日記」(写真22)につぎのように記している(若穂川田 西沢健吉蔵)。「八月一日、七月より降りつづき千曲川大満水にて、大室(おおむろ)村(松代町)西釜屋(にしかまや)村上手土堤(かみてどて)が切れ込み、大室分地往還筋人馬の往来が止まる。当村(川田村)亀岩続き土堤今すでに切れ込みになり候ところ、追いおい引き水に至り土堤は無難であった。しかし、内新田までも残らず水入りになり、諸作大病」になった、という。西寺尾村(松代町)では一軒が押しつぶされ、物置一軒が流失している(松代町 五明悦蔵)。


写真22 安政2年(1855)「御用書留日記」
  (若穂川田 西沢健吉蔵)

 安政六年五月十八・十九両日に千曲川・犀川・裾花川が満水となった。この満水は寛保二年の戌の満水いらいのものといわれる(『松代町史』下)。裾花川の満水では岡田(中御所)で土手が切れ、栗田・千田(せんだ)・南俣(みなみまた)・市村・北中(芹川)、中御所・九反(くたん)(中御所)まで水害となった(「小野家日記」『長野市史考』付属史料45、『豪農大鈴木家文書』)。裾花川は万延元年(一八六〇)、文久二年(一八六二)、慶応元年(一八六五)、同二年と毎年のように満水となっている。文久二年七月二十八日の大雨では裾花川から南北の八幡堰(はちまんせぎ)へ押しこみ、「稲作・木綿泥水冠(かむ)りならびに人家水入りに相成り候」となった(『県史』⑦二二八三)。慶応元年閏(うるう)五月二十七日昼七ッ時(午後四時ごろ)、岡田の西で土手を押し切り石堂(南・北石堂町)の田んぼが本川になる。問御所(鶴賀問御所町)、栗田・七瀬・南俣(芹田)が大満水になり、六月六日にやっと水が引く。「類例(るいれい)もこれなき大満水」であった(『市誌』⑬三五七)。翌慶応二年五月九日より降りつづいた雨は十五日までやまず、十五日に前年と同じ岡田より切れこみ「両年とも、開発皆無、大損失」となった。

 水害の反面で旱魃(かんばつ)もときどき起きている。旱魃は水害と違ってひろい範囲の場合もあるものの、狭い範囲のときもある。安政二年夏、山布施(やまぶせ)村(篠ノ井)など六ヵ村から、旱魃なので六月九日に雨乞(あまご)いをしたいとの願いが松代藩役所へ出されている(「家老日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下も断わらない限り同じ)。安政五年八月五日には、稲積(いなづみ)(若槻)・桐原(きりはら)(吉田)両村が雨乞いを願いだしている。善光寺領の箱清水村では文久三年(一八六三)、干損検見(かんそんけみ)の御救い願いをした(『内田家文書』長野市博寄託)。この願い書は、「七月二十六日白露(はくろ)の季節になっても、二十日ごろから少々の雨はあったけれども田畑とも赤枯(が)れになっている。八月二十四日には大霜がおり、作物は青立ちとなり、蕎麦(そば)は大不作である」、と述べている。旱魃になると村の鎮守(ちんじゅ)で雨乞いがおこなわれ、さらにつづくと戸隠山までお種水をもらいにいく。

 地震では弘化の善光寺地震の余震が数年つづいた。嘉永七年(一八五四)十一月四日の朝五ッ時(午前八時ごろ)、松代付近を震源とする地震が起きた(『松代町史』下、『野本家文書』長野市博寄託)。この地震で城の塀(へい)が倒れ、城の穀蔵(こくぐら)、梅翁院(ばいおういん)本堂と西念(さいねん)寺の庫裏(くり)がつぶれた。城下町では家臣の家と町家(まちや)をあわせて一三二軒、在方では二〇軒がつぶれ、けが人二九人、死者五人の被害が出ている。安政五年三月十日の夜中にも地震が起きて、城下は半つぶれが多く、山中(さんちゅう)筋では山抜け、山崩れが起こっている。

 幕末の大火としては、安政二年二月二十八日の大室村(松代町)の昼火事がある。村中がほとんど焼失した。松代の城下町では文久元年七月三日、肴(さかな)町から出火し肴町を大半焼き、中町まで延焼した(『松代町史』下)。

 人びとの交流範囲がひろがると、病気もひろがりを見せてくる。文久二年閏(うるう)八月、問御所村は水損御手当て願い(『県史』⑦二二八三)のなかで、「当年流行麻疹(はやりはしか)・痢病(りびょう)、当節に相成りコロリ病相煩いなどつかまつり候えども、薬用差し加え候手段もこれなく、親・夫に先立たれ、あるいは子どもを残し相果て候者もこれあり候」と、記している。コロリはコレラ菌による伝染病である。文政五年(一八二二)西日本一帯に流行し、その後安政五年(一八五八)全国的に流行をみた。江戸での死者が多かった。はしかはウィルスによる発疹(ほっしん)が出る伝染病であり、死亡率の高い病気であった。コレラは江戸では安政五年に大流行したが、善光寺平では翌安政六年に流行した。越後から来た職人よりはじまったといわれ、替佐(かえさ)村(豊田村)、浅野村(豊野町)辺りはとくにはやり、多くの死者が出た。文久二年にはやったはしかで、権堂村の水茶屋は休業同然となった。善光寺町へ来ていた伊勢御師(おし)荒木田久任(ひさとう)ははしかにかかり、同年八月十一日東之門町の御旅舎(おたや)で亡くなっている(小林計一郎『善光寺史研究』)。

 コレラがはやった安政五年九月、松代領では「疫病(えきびょう)流行につき町々・在々の者ども、邪気払い百万遍(ひゃくまんべん)執行致したきむね願いでるように」との触れが出された。文久二年閏八月一日、松代城下八町からはしかがはやっているので天王祭礼を延期してほしいとの願書が出されたが、藩は快方に向かってきたので祭礼を十八・十九両日におこなうようにと申し渡している。

 天変地異が頻発し、病気がはやると社会不安がひろがる。西洋医術や医薬が多少ひろがってきたとはいえ、江戸時代においては重病は民間医療に頼ったり祈祷にすがることが中心であった。社会不安が増大した幕末には、天理教や金光(こんこう)教など新興宗教が勃興(ぼっこう)してくる。同じように木曽の御嶽山(おんたけさん)を信仰する御嶽講もひろがる。御嶽講は尾張春日井(かすがい)(愛知県春日井市)出身の修験覚明(しゅげんかくめい)が天明五年(一七八五)黒沢口(木曽郡三岳村)から、江戸の修験晋寛(ふかん)が寛政四年(一七九二)王滝口(同郡王滝村)から、御嶽登山を強行して以後、講をつくっての信仰登山がはじまり、幕末には名古屋や江戸を中心にひろがった。善光寺平へも御嶽信仰が浸透してきている。やがて幕府は御嶽教を邪教として取り締まるようになり、松代藩も取り締まりに乗りだした。

 嘉永六年七月、綱島村(更北青木島町)・広田(ひろだ)村(更北稲里町)の五人は御嶽講をたて、経文の修行をおこなったとして松代藩から過料銭の罰をうけている(「家老日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵、以下も同じ)。市村南組(芹田)の九人は御嶽講をし、お宮を建てたかどで過料銭一〇貫文ずつ、神主は新宮取り払いのうえ逼塞(ひっそく)一〇〇日、名主は七貫文の過料銭を課されている。安政二年三月、布施高田村瀬原田(せはらだ)(篠ノ井)の三人は、一四ヵ年前より御嶽講を立て、三年前から自分の村や隣村二ッ柳(ふたつやなぎ)村(篠ノ井)において祈祷したかどで過怠夫(かたいふ)一ヵ年、関係したものも過料銭を命じられている。同年六月、久保寺村小路組(安茂里)の某は過料銭一貫文、関係したものはお叱りの罰をうけている。安政三年十二月、大豆島(まめじま)村の三人と他村の三人も過料銭、関係者は急度(きっと)叱りの罰をうけた。牛島村(若穂)では忠左衛門が発起人となり、ほか四人で御嶽講をたてたとして、それぞれ一貫文の過料銭とされた。文久二年六月、同じ牛島村で金平ほか三人、梅治ほか五人は過料銭を課された。村役人は取り締まり不行き届きということで急度叱りの罰をうけた。同年七月高田村(古牧)など五ヵ村の六人は御嶽講をたて祈祷したということで過料銭、村役人も急度叱りをうけた。同年山村山村(篠ノ井)四人で御嶽講をたて、さらに御嶽社を建設したということで村役人まで過料銭が課され、お宮は引き払いとされている。同年八月、下横田村(篠ノ井)ほか六ヵ村二六人は、過料銭と急度叱りの罰をうけている。

 限られた史料からであるが、このように安政から文久にかけて善光寺平の多くの村々に御嶽講がひろがりをみせ、それにたいして松代藩は造営したお宮を撤去(てっきょ)させ、過料銭を徴し、村役人にまで連帯責任の罰を課した。

 幕末には治安の悪化もみられる。松代藩の「家老日記」から拾いだしてみる。安政二年十一月二十日、阿波(あわ)国(徳島県)の無宿で追い払い身分の鉄蔵が松代領内へ立ち入り盗みをした。安政五年九月、三輪(みわ)村(三輪)源八方へ盗賊が入り、銭三貫文・絹糸三貫文・真綿(まわた)九貫文などが奪われた。同六年十一月、保科(ほしな)村(若穂)の一人暮らしの女性もせ宅へ男が強盗に入り、「衣類・金銭残らず差し出すよう申す。差し出さねば切り殺すと申す」ので、衣類と銭八〇〇文を差しだしたところ、賊は一人暮らしで難渋のようすをみかねて二〇〇文を残して逃げ去った。


写真23 嘉永6年(1853)御嶽講の記述のある「家老日記」
(『松代真田家文書』 国立史料館蔵)

 家老の鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)が安政六年に書いた吟味願い書は、「領内金賊・盗賊の吟味取り扱いがゆるみ、松代領内には盗賊が多い。松代領で盗みをしないのは損との話で、盗賊が多く入りこんでいる。すでに城内においても賊難にあっている」と述べている。文久二年七月、西寺尾村岡神明組(篠ノ井)の三人が野荒し、そのうえ不法狼藉(ろうぜき)をしたとして過怠夫(かたいふ)の罰をうけた。万延元年(一八六〇)五月、布施高田村(篠ノ井)の二人がつねづね農業を怠り、親や親類・組合が意見をしてきたが、両人とも家出をしてしまった。文久元年二月、山布施村(篠ノ井)の某は村内に怪しい張札(はりふだ)をして藩によびだされ吟味をうけた。慶応四年四月、大室村(松代町)は「寺前上と申す往来端(ばた)に乞食体(こじきてい)の坊主一人が切り殺されている」と訴えでた。同年、松代藩は一四人にたいして人殺し・押し込み・盗賊(とうぞく)・追剥(おいはぎ)などをしたとして獄門(ごくもん)や死罪を申し渡している。

 善光寺周辺では、慶応二年(一八六六)の「二月下旬ころより、何者とも知れず夜中に所々の桑を根本(ねもと)より刈り取る不思議な騒動が御座候」といったことが起こっている(「小野家日記」)。