山形庄内(山形県庄内市)の出身で尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士として活躍する清川八郎が、安政二年(一八五五)、伊勢神宮や讃岐(さぬき)(香川県)の金比羅(こんぴら)、安芸(あき)(広島県)の宮島まで旅をした。このとき途中善光寺へ参詣をしている(小林計一郎『善光寺史研究』)。弘化四年(一八四七)の善光寺地震から六年ばかりたったときの善光寺町のようすが知られる。四月十四日に善光寺に入り、翌日離れている。
柏原、古間等の村々を越、無礼井(むれい)(牟礼)にいたる。先年地震のうれひいまだ癒へざれば、近辺何方も美なる家も見へず。いまにあれたる風景、まことに天変の流行、をそるべきものなり。壱里余あゆみてしだいに山坂をはなれ、川中島の平地を追々見落し、覚えずくたびれをわすれ、平地に降りて新(あら)まち宿(若槻)に休(やすら)ふ。是より善光寺まで人家続きにて、壱里計(ばかり)して寺前の藤屋平左衛門に泊る。いまだひる後にしてむしあつき事をびただし。此(この)日片貝(山形県小国町)の女子連と同道せしゆへ、いろいろ話ありてにぎわひき。またわづらはしくもありき。善光寺は信州第一の繁華にて、北国・江戸往来といひ、参詣のもの日本中よりあつまり、日々のにぎわひをびただし。五千余の人家有るに、地震已後(いご)四千計と減じ、旅舎など粗相なれども、藤屋両家尤(もっ)とも(最も)繁昌にして、二、三月ころ道者の盛なるころは、一夜に三、四百人もやどすとかや。(中略)仁王門は再建いまだならず。それより広さ二間半計りに板石をしき、左右に数珠(じゅず)店、そのほかいろいろの浮(うき)店、あまた連なり浅草門内に異ならず、山門の前、右に大勧進といふ寺頭あり。宮抔(など)の御殿はいまだ普請ならず。(中略)本堂の下を暗やみにめぐる。また先祖代々の供養を乞ひ、半片(はんぺん)を納る。それより境内をめぐる。吾先年いたりし頃は、地震のあとゆへ、燈籠(とうろう)など見(みっ)ともなかりしに近頃は余程立直りて、見事になりぬ。本堂左の前に、地震の時横死せし遺骨ををさめたる、上田の住人土屋仁輔(じんすけ)の建てたる立派なる石堂(塔)あり。本坊より回忌の供養時々あり。まことに奇特なる仁輔のこころざし、見るごとに感涙をもよふすのみ。弘化丁未(ひのとひつじ)(弘化四年)の頃建しなり。紛乱早怱(そうそう)の中、よくも気のつきしものなり。人間の心はさありたきものなり。
江戸時代後期になるにしたがって善光寺への参詣者は増加し、権堂村や後町村までも町家が増え門前町としてひろがりを見せていた(「小野家日記」『善光寺史研究』所載。以下もこれによる)。それが善光寺地震によって壊滅的な被害をうけた。その後、嘉永三年(一八五〇)六月七日にも小地震があり、嘉永六年十二月にも地震があって、善光寺本堂の天蓋(てんがい)が破損した。震災後は生活苦の人びとが多かったとみえ、不穏の動きもみられる。嘉永三年四月二十八日、後町村鈴木八兵衛、三輪村清七の家の表に、「今井磯右衛門(いそえもん)・田川清七から金をしぼりとられ生活できぬので、四月二十八日ほら貝を合図に西は加茂宮、東は高土手に集まり、大勧進・大本願へ嘆願し、お聞き入れなければ御両寺、役人宅を打ちこわそう」という張り紙が張られた(『大鈴木家文書』)。このときは不穏な動きだけで、打ちこわしにはいたらなかった。
元治元年(文久四年、一八六四)十二月、善光寺町は幕府の道中奉行にたいし、ペリー来航以来諸大名の通行が多くなり難渋しているので、当分助郷(とうぶんすけごう)を取りやめてほしいと願いでている(『県史』③二〇二二)。このなかで町のようすについて、「元来極貧の町方のところ先年震災以来わけて窮迫(きゅうはく)つかまつり(中略)窮民ども取り続き兼ね、難渋の土地柄を見限り妻子一同町方立ちのき、または他村奉公稼ぎまかりいで、あるいは潰れにおよび候者多分出来(しゅったい)」と述べている。その日暮らしを強いられている人びとは食い扶持(ぶち)にも困るようなこともあり、困窮者にたいして米の安売りや施米(せまい)がおこなわれている。
慶応二年(一八六六)五月には裾花川の大満水があったが、六月になると天気もよくなり米の値段も下がった(『市誌』⑬三五七)。しかし盆中からの冷気、八月十六日前夜から台風による大雨で米穀払底になった。穀屋仲間は、越後米を買い入れ小売りに差し支えないようにするとの請書を善光寺役所へ出している。同月、立町(たつまち)の町役人は善光寺役所へ拝借米願いを出している(西之門町 藤井一章蔵)。それによると、借地人のなかに極難渋者五四軒、一〇歳以上一三四人がいる。近ごろ米穀をはじめ諸色(しょしき)が高直(こうじき)になり、商売や日雇いなどが不景気で諸業も営業が困難なため、最合(もあい)(合力)もできかねる。どうか御用米を少しずつ拝借したいと述べている。十月、難渋者への安穀売りがはじめられ、後町村の鈴木八兵衛は米穀買い入れに金一〇両を拠出している(『大鈴木家文書』)。大門町の荒屋彦八方で米の安売りが十二月十八日まで隔日におこなわれ、二十日から二十五日までは毎日安売りし、二十八日は無料で一人二合五勺ずつあたえられている。十二月二十七日には代官今井磯右衛門宅で、極貧のものへ一人一升ずつ、一軒に銭五〇〇文ずつがあたえられた。
困窮者の増加に備えて町々も対応している。たとえば慶応二年四月、「非常備え」として籾を銘々積み置きをすることとなり、横町は九俵、東之門町は一〇俵と決めている(『今井家文書』県立歴史館蔵)。
善光寺地震の震災にあった近郷の村やお寺のなかには独自の復興策を講じているところもみられる。安政三年(一八五六)十一月、箱清水村(箱清水)の有志は、善光寺地震で仏壇などまでみな潰れてしまったため、「仏恩報謝」の思いから仏壇を求めたいとして「仏壇講」という頼母子(たのもし)講を結成している(『県史』③二〇九五)。
震災から時間がかかったが、寺社の復興もすすんだ。宿坊のひとつ長養院は文久二年(一八六二)八月、持ち郡である上州(群馬県)邑楽(むら)郡の信徒に、「当院は寄進によってようやく庫裏普請(くりふしん)はできたが、位牌(いはい)堂はいまだ再建の見通しが立たない」と勧進(かんじん)をしている(『県史』③二〇九九)。
神社の再建もできている。武井(たけい)神社の拝殿は問御所村の久保田新兵衛が施主になって寄進し、安政六年(一八五九)八月から再建工事がはじまり、翌万延元年(一八六〇)四月十六日に再建がなり、遷宮がおこなわれた。鳥居もできており、これは田町の倉蔵が寄進している。
大門町は震災一三回忌の安政六年二月二十一日、吹流し一対の献備を善光寺へ申しだしている(『県史』③二〇四〇)。善光寺仁王門の再建は元治元年三月十五日にはじまり、翌慶応元年七月二十日に落成した。仁王門の再建には大勧進の財政改革にかかわった柏原宿(信濃町)の中村六左衛門が尽力している。横沢町は元治元年八月、仁王門再建と本堂の屋根葺(ふ)き替えに金七〇両を出し(『横沢町共有』)、木綿仲間は慶応元年、仁王門の仁王裏がわにすえる大黒天(だいこくてん)像と荒神(こうじん)像などを寄進している。仁王門完成御回向(えこう)(居開帳)がなされ、「小野家日記」を残した善光寺大門町の小野家でも「御当山御開帳につき、地震後十九年目にて出来(しゅったい)にて金百疋(金一分)」を出している。