偽官軍事件と北信濃

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慶応(けいおう)四年(一八六八)一月三日に、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いを皮切りに戊辰(ぼしん)戦争が始まった。鳥羽伏見で幕府軍を破った新政府は、一月七日に徳川慶喜(よしのぶ)の追捕(ついほ)を発令し、ついで同九日に岩倉具定(ともさだ)を東山道鎮撫総督(とうさんどうちんぶそうとく)に任命して、同十日には天朝御料化(旧幕府領を朝廷領とする)官言を出すなど、政局はいっきに進展することとなった。

 こうした動きは、新政府の布告をはじめ、上京中の各藩士や商人などによって、信州に刻々と伝えられたが、御一新(ごいっしん)の変革が現実味をおびてくるのは、綾小路俊実卿(としさだきょう)や滋野井公寿(きんひさ)卿を擁立(ようりつ)して結成された赤報隊(せきほうたい)、とくに赤報隊一番隊の信州入りによってであった。赤報隊は三隊から編制(へんせい)され、一番隊は相楽(さがら)総三が隊長をつとめていた。相楽は、新政府に年貢半減の建白書を提出して活動に入ったが、一月下旬、新政府は年貢半減を否定し、赤報隊に帰洛(きらく)命令を出した。この命令によって、綾小路卿や滋野井卿らは京に帰り、赤報隊は解散となった。相楽の一番隊だけは、東山道鎮撫総督府軍の先鋒(せんぽう)として、そのまま東山道を前進することにし、年貢半減を布告しながら、中津川から伊那、諏訪のコースを通って、信州に入ってきたのである。二月五日、下諏訪に仮の本陣をおいた相楽らは、赤報隊一番隊を「官軍先鋒嚮導隊(きょうどうたい)」と改称し、東・北信地方の情勢探索(たんさく)をおこなうことと、碓氷(うすい)峠を占拠(せんきょ)することを当面の大きな目標とした。

 嚮導隊は、桜井常五郎・神道(みち)三郎、さらに、西村謹吾・大木四郎らといった幹部を東・北信に出張させた。彼らは小グループに分かれて情報探索にあたり、中之条(なかのじょう)陣屋(埴科郡坂城町)には、二月八日の夕刻、神道三郎らがあらわれ、二五一両を献金させ、囲穀(かこいこく)や諸書物には封印し、政治向きのことはのちほど来る総督府のさしずを受けるように、本陣詰(づ)めの役人や呼び集めた郡中の村役人に伝えている。二月九日に「官軍御先手」と称する二二人が上田本陣に宿泊し、代表の一人が上田城において家老と面会し、勅命(ちょくめい)に背(そむ)かないとの書面を提出させている。

 この一行は、翌十日に行列をつくって上田城下町を出発し、下戸倉宿(埴科郡戸倉町)の本陣十良右衛門方に泊まった。本来は松代城下に泊まる予定であったが、都合によって下戸倉宿へ泊まることになったのである。下戸倉宿本陣に陣取った一行は、大朝方一人、清水組六人、大砲(おおづつ)方八人、遊撃(ゆうげき)隊七人であった。当時の見聞によると、年齢は十八、九歳から三〇歳ぐらいまでで、なかには十四、五歳のものもいた。全員がそれぞれ西洋筒(つつ)(銃)をもっていたが、筒は不揃(ふぞろ)い、刀・脇差(わきざし)も粗末(そまつ)なもので、紋付きの衣服のものは一人もなく、晒木綿(さらしもめん)を着ていたという。本陣前には一、二人が立ち番し、家中荷物や商人荷物を差し止めて、中身をあらためた。宿役人が大朝方に訴えたところ、商人荷物の差し止めは解除(かいじょ)となったが、矢代宿(やしろじゅく)(更埴市屋代)人足が継(つ)ぎ立ててきた佐渡証文箱については、朝敵(ちょうてき)のものをなぜ運ぶのかと糾弾(きゅうだん)し、戸倉村役人を立ち会わせて書類を焼き捨てるなどした。

 彼らは、下戸倉宿を北信の前線基地としたようで、前日の九日に松代城下に出向いた西村謹吾と竹内健助もこの日に下戸倉宿に戻ってきた。松代宿役人が来て、松代へ泊まるようにすすめたが、西村謹吾はすでに用事がすんでいるので用がないと断わっている。下戸倉宿から早駕籠(はやかご)で善光寺・権堂へ出向き、間(あい)ノ川又五郎(のちに佐山忠暉と改名)の所在をたずね歩いたものもいた。又五郎は上州(群馬県)邑楽(おうら)郡北海老瀬(えびせ)村出身で、権堂村を拠点(きょてん)に各地に子分を五〇〇人余ももつ博徒(ばくと)であった。嘉永(かえい)四年(一八五一)末に高井郡上条村川原(下高井郡山ノ内町)で旅籠(はたご)を開業するいっぽう、中野代官所の目明(めあかし)となり、のちに長野県の探索方(たんさくがた)、明治六年(一八七三)には等外三等属(ぞく)を拝命するという人物であった。このとき相楽からは子分三〇〇人ほど貸してほしいという依頼を受けていたため、行方をくらましていたのである。のちほど又五郎が留守(るす)ということにし、倅(せがれ)政司の名で二〇人ほど出すことを相楽に返答している。

 いっぽう、二月八日には、真田求馬と関蔵人の二人が善光寺宿本陣藤屋平五郎方に泊まっていた。二人は「東山道鎮撫総督高倉殿先手」と称し、十三日に飯山藩家老を呼びだし、大勧進大書院において面会し、勤皇の誓紙をとった。こうした応接活動は、小諸藩でもおこなわれ、同藩では五〇〇両と米二〇〇俵を献上させ、御影(みかげ)陣屋(小諸市)においても二八六両を受け取ったほか、ゲベール銃四二挺と付属の品々を取り上げている。そして、十一日には岩村田藩(佐久市)をへて、関東をうかがおうと碓氷(うすい)峠に陣をとり、「官軍先鋒嚮導隊見張所」の木札を立てて警戒にあたった。

 こうしたおり、東山道鎮撫総督府は、二月十日付けで、松代藩をはじめ信濃諸藩あてに、相楽らの隊は「無頼(ぶらい)の奸徒(かんと)」による「偽(にせ)官軍」であるので、取りおさえるよう布告した。嚮導隊の対応に苦慮(くりょ)していた信州諸藩は、この布告によって勢いづけられ、上田・小諸・岩村田・安中の藩兵と御影陣屋の農兵が、二月十七日、追分・沓掛・軽井沢の三宿に分宿していた嚮導隊を攻め、壊滅(かいめつ)させた(追分戦争)。この日偶然(ぐうぜん)、間ノ川又五郎は相楽への返事のてまえ、倅政司に子分二〇人をつけて、善光寺大門町から出発させた。しかし、その夜、中野陣屋の山崎右京(うきょう)から嚮導隊が偽(にせ)官軍として、打ち払われたとの早飛脚(はやびきゃく)が届き、急いで政司ら一行を宿泊先の坂木宿(埴科郡坂城町)から引き返させた。小諸・岩村田・上田の諸藩に捕縛(ほばく)された嚮導隊員は「偽官軍」として斬首(ざんしゅ)や追放(ついほう)などの処分となった。嚮導隊のなかには、佐久郡春日村(望月町)出身の桜井常五郎の関係で、佐久郡の農民が多数入隊していたが、現長野市域からも善光寺の佐々木次郎(綱信)・保科卯(う)(保)三郎、松代の三井八十三郎の三人が参加し、佐々木・保科は大砲方に属していた。追分戦争では三井が小諸藩、佐々木が岩村田藩に捕縛されている。保科卯(保)三郎(二七歳)は平田篤胤(あつたね)没後の門人の一人であった。


写真1 坂木宿と陣屋跡碑 (『善光寺名所図会』より)