東山道鎮撫総督府(とうさんどうちんぶそうとくふ)軍(以下、東山道軍と略称)は、慶応四年(一八六八)二月一日から二十一日まで、美濃(みの)大垣(岐阜県大垣市)に滞在し、軍資金などの準備がととのったところで薩摩(さつま)・長州の藩兵を中心にして出発した。木曽の上松(あげまつ)宿(木曽郡上松町)には二月二十八日に入り、下諏訪宿(諏訪郡下諏訪町)への到着は三月一日であった。
こうした東山道軍の動きに対して、松代藩では、二月九日、「今般、東山道鎮撫として堂上方御下向(どうじょうかたごげこう)、追々(おいおい)御領内御通行、且(か)つ御止宿にも相成るべく哉(や)につき」ということで、通行がすむまでのあいだの注意事項として、猟師鉄砲(りょうしてっぽう)であってもいっさい発砲しないこと、火の元にはとくに入念にすること、軍兵の引率(いんそつ)があっても決して驚かないこと、通行を見物に出ることは無用であること、宿泊のあるときには御用人足のほかは宿舎近辺へ近づかないこと、宿舎前は通行しないようにし、不敬がないように心がけること、などを領内村々に触れた。また、松代の新馬喰(しんばくろう)町は二月四日から、東山道軍が信濃を通過してしまう三月十日までのあいだ、夜番・立番・自身番を置いて警戒にあたった。けっきょく東山道軍は下諏訪宿から中山道(なかせんどう)を進み上州へと去ったので、松代領内の通行はなかったが、村々においては一時期かなりの緊張状態にあったのである。
しかし、この間松代藩は、東山道軍に対してさまざまな援護(えんご)活動をおこなっていた。二月八日には、太政官(だじょうかん)から信濃一〇藩の触頭(ふれがしら)を命じられるとともに、東山道軍への出兵を要請された。これに対して松代藩では二月十六日に銃隊三一二人、銃隊役付五〇人、砲六挺、砲司令・砲手五六人、持夫一七八人、以下役付四二人、又者(またもの)一五八人、駄馬六〇匹(口付一匹につき一人ずつ)を東山道軍へ出張させると回答した。また、東山道車は、兵食の取り計らいや宿々の警衛、人馬継ぎ立ての世話などを信州諸藩に分担させての通行で、二月二十日、松代藩に岩村田(佐久市)から上州安中(群馬県安中市)までを担当するように命じている(県史近代①)。
いっぽう、尾州(びしゅう)(名古屋)藩は朝廷から信濃と東海道の各藩にたいする勤王誘引(きんのうゆういん)の命を受け、活動していた。松代藩へは、二月十二日に遠山彦四郎を派遣し、重役一人を名古屋へ出張させるように伝えてきた。二月十六日、松代藩は家老河原左京、郡奉行(こおりぶぎょう)岡野弥右衛門、目付(めつけ)近藤民之助の三人を名古屋に派遣したところ、勤王に尽力(じんりょく)する旨の請書(うけしょ)を提出するように求められた。このため、近藤民之助が雛型(ひながた)をたずさえて急ぎ松代に戻り、藩主真田幸民(ゆきもと)と重役連署の書面をもって名古屋に引き返し、勤王尊奉(そんぽう)の請書(二月二十七日付け)を尾州藩主に提出した。その内容は、つぎのようなものであった。①信濃守(真田幸民)・右京太夫(真田幸教(ゆきのり))とも、朝廷尊戴(そんたい)は従来からの信念であり、このたびの御達(おたっし)の趣(おもむき)にしたがい、当藩はもちろん、近隣諸侯と申し合い、勤王に勉励(べんれい)尽力する、②賊徒(ぞくと)ご征伐(せいばつ)ならびに非常の節は、朝命にしたがって出兵する、③旧幕府から指図があっても、尾州家へうかがってからでないと、その指揮には応じない、④役向きのものを一人、尾州藩へ詰めさせる。
勤王誘引の請書は、信濃の諸藩や旗本からも提出されており、信濃諸藩の旗色が一応はっきりしたところでの東山道軍の通行であった。
東山道軍が木曽道に入った二月二十九日、東山道総督府は、松代藩に甲州口(山梨県)への嚮導(きょうどう)(道案内)、および甲府への出兵を申しつけてきた。松代藩では、さっそく同日に四〇六人、翌晦日(みそか)に三九〇人を出立させた。先発隊が途中で東山道鎮撫総督の通行と出会い、下諏訪宿で滞留(たいりゅう)を余儀(よぎ)なくされたため、七九六人の甲府への到着は三月五日であった。家老の大熊衛士を隊長に、銃隊首では恩田織部(おりべ)・原隼之進(はやのしん)・青木忠太夫・矢野義男、大砲司令では桜井佳人・野村隼多・大島直之進・宮沢徳太郎・佐藤正左衛門、小隊長では寺内多宮・牧野大右衛門・寺内刑部(ぎょうぶ)・松木源八・大日方四郎兵衛・柘植(つげ)彦四郎らが甲府城の守衛についた。約一ヵ月後の四月三日に一〇六人が帰藩するが、四月中旬、関東脱走の古屋作左衛門が飯山城を攻めるにおよんで、東山道総督府は四月二十二日に松代藩の甲府城守衛の任を解いた。松代藩では春原(すのはら)織右衛門らの小荷駄方四〇人を残し、四月二十二日に三二〇人、翌二十三日に三三〇人を甲府から出立させ、飯山戦争へと転戦させた。
その後、甲府城代水野出羽守から、八王子あたりに江戸脱走の兵が集まって、不穏(ふおん)であるので援軍を送ってほしいと松代藩に要請があり、閏(うるう)四月二十三日に松木源八の一小隊と大砲二門(司令宮沢徳太郎)の七四人を出立させた。越後筋への出兵で一小隊と砲二門が限界のむね、東山道および東海道の各総督府に届けたが、さらに援軍要請があり、五月六日に一小隊(司令寺内刑部)五五人を派遣、五月二十六日にも二八人が甲府に赴いた。この間の五月二十一日に真田幸民が甲府城代に任命されたが、越後筋の戦闘(せんとう)がきびしい状況であったため、翌六月二十九日、その職を解かれている。甲府城から松代藩兵全員が撤退(てったい)するのは、翌明治二年三月十五日であった。甲府城守衛に要した総費用は七四九二両余であった。