慶応四年(一八六八)四月十二日、奥州から越後をまわってきた大垣藩の大塚滝五郎が飯山藩に立ち寄り、新潟に集まっている歩兵五〇〇人ほどが信濃へ向かうようすであるので、総督府(そうとくふ)へ連絡したほうがよいのではないかと知らせた。飯山藩では翌十三日に柏原源五右衛門と田中左司馬を松代藩へ派遣し、連絡しだい援兵(えんぺい)を出してくれるように依頼した。
このころ、新政府軍に屈することを嫌(きら)った旧幕臣は、江戸を脱して奥羽・北越の諸藩へのがれ、態勢を挽回(ばんかい)しようとしており、北越地方が騒がしくなっていたのである。松代藩も独自の探索(たんさく)によって、会津兵が新潟および小千谷(おじや)に、水戸浪士五〇〇人余が出雲崎に集まっており、また、柏崎にいる関東脱走の歩兵六〇〇人余にあっては、近日、歩兵先鋒(せんぽう)となって、高田を通り信濃路へ進入して、松代を攻めようとしているとの情報を入手していた。とくに、関東脱走兵を指揮する旧幕府歩兵頭古屋作左衛門が、信州とりわけ松代を攻める意図については、つぎのようなさまざまな報告がもたらされていた。
・松代を取れば、その他の藩々は戦わずして服すので、まず信州を攻め、しかるのちに甲州を取り、官軍の背後を断(た)てば必勝できる。
・信州を蹂躪(じゅうりん)して、美濃・近江より京都を襲(おそ)う。
・旧幕府は古屋作左衛門に信州において二〇万石の地をあたえるとの確約があり、これによって部下の歩兵ばかりか沿道の悪徒(あくと)も誘っているので、その勢いはきわめて激しい。
このほか、新発田(しばた)城下での会津・長岡藩等の会議には高田藩も加わり、歩兵などを高田城下を通すことになったとの風聞も伝わってきていた。
江戸が無血開城となったとはいえ、いまだ信濃諸藩の旗色がはっきりしていないおり、一時に多くの敵を眼前にし、その形勢が容易ならぬことを知った松代藩は、「危機存亡(ききそんぼう)の秋(とき)至れり」とただちに領内の守備固めに入った。古来の関門はもちろん、そのほか要地には新関を設け、守兵を配置した。松代博労(ばくろう)口、寺尾口(松代城下町上下の郊外門)、関屋、笹崎、関崎(松代三口の要害)、鼠宿(ねずみじゅく)、桑原、牟礼(むれ)(北国街道の領境)、仁礼(にれい)(上州裏街道)、戸隠(越後から松本への裏街道)、佐野(上州草津への間道)などは緊要の地であったので司令士に数人の銃手をつけて守らせ、とくに、仁礼(須坂市)と鼠宿(埴科郡坂城町)には大砲一分隊、牟礼には数隊の兵を配置したのである。このほか矢代(更埴市屋代)・丹波島・寺尾・赤坂などの渡り口には番所を設けて往来する人を監視した。
こうした情勢のなか、四月十八日、牟礼宿(上水内郡牟礼村)の宿役人から、古屋らの一行(衝鋒隊(しょうほうたい))が越後出雲崎から松本まで通行する先触れが届いた、との連絡が松代藩や尾州藩出張の中野陣屋に入った。四月十五日発信の先触れは、人足九九人・馬八匹を準備するようにとの内容で、行程は十九日春日新田休み・高田(新潟県上越市)泊まり、二十日新井(同県新井市)休み・関山(同県中頸城郡(なかくびきぐん)妙高村)泊まり、二十一日関川(同県同郡妙高高原町)休み・柏原(上水内郡信濃町)泊まり、二十二日牟礼休み・善光寺泊まり、二十三日篠ノ井休み・桑原(更埴市)泊まり、二十四日青柳(東筑摩郡坂北村)休み・会田(東筑摩郡会田町)泊まり、二十五日岡田休み・松本泊まり、というものであった。
この先触れの到来で、松代藩はじめ、飯山藩・中野陣屋などはいっきに動きがあわただしくなった。松代藩では、四月十八日の夜から十九日払暁(ふつぎょう)にかけて大会議を開き、徹底防戦をし、一人も通さないこと、ただちに京都ならびに東山道総督府(とうさんどうそうとくふ)へ馬場広人と宇敷元之丞をもって急報させること、信州諸藩に応援の兵をうながすこと、総括隊長を河原左京、総括副隊長を小幡内膳とし、兵卒を十九、二十、二十一日に派遣することなどを決定した。十九日の昼過ぎ、先鋒として一番隊長蟻川賢之助、二番隊長金児友太郎、大銃方司令小宮山三吉・清水一郎左衛門、目付兼使番樋口弥次郎・上原徳之助、武具・弾薬奉行池田平角、陣馬・兵糧(ひょうろう)・小荷駄兼奉行小崎貫兵衛・藤岡伊織、医師両角玄修ら二〇七人を新町(あらまち)宿(長野市)へ向けて出発させた。また同日、尾州藩出張の中野陣屋役人の呼びかけで、尾州・松代・飯山の三藩が会合をもち、北国往還は松代と尾州の二藩で固め、飯山口は飯山藩で防備することを決めている。
古屋らの一行は、四月二十日、松代藩の動きを察知して新井宿から急きょ道を変え、富倉峠を越えて、飯山城下上町(かんまち)の真宗寺(しんしゅうじ)へ入った。単独での戦いをさけるために、飯山藩は衝鋒隊(しょうほうたい)に協力するふりをして、松代藩兵などの援軍の到着を待つことにした。飯山藩からの知らせを受けた松代藩は、二十日夜、総括隊長河原左京をはじめとする本隊が出発、ついで二十一日には総括副隊長小幡内膳の後続(こうぞく)隊が飯山に向かった。松代藩は、飯山藩の事情を考慮し、また諸藩の援兵の到着を待つために無謀な進軍をひかえていたが、中野陣屋詰めの尾州藩と協議した結果、松代・尾州の両藩で衝鋒隊へ総攻撃をかけることになった。両藩兵は、間ノ川又五郎らの案内で飯山の対岸安田村へと進軍し、四月二十五日早朝、総攻撃を開始した。これが信州における初の戊辰(ぼしん)戦争、すなわち飯山戦争であった。衝鋒隊は二手にわかれ、一手は川西に陣取って安田山に発砲し、残る一手は飯山城内へ迫ったが、これまで味方を装っていた飯山藩兵が、背後から大小銃で攻撃したために衝鋒隊は大混乱におちいり、城下のところどころに火を放って富倉峠を越えて新井宿方面へと敗走した。
この戦争で飯山城下は翌二十六日まで燃えつづけ、慶宗寺・大輪寺・称念寺などのほか、町家九〇〇棟以上が焼失したという。衝鋒隊員は四〇人ほどが討ち取られ、松代藩では小頭の小沼忠右衛門と沓野(くつの)村(下高井郡山ノ内町)の軍夫一人が即死、足軽二人が負傷し、飯山藩では討ち死に一人、手負い三人の犠牲者が出た。
信濃諸藩の働きをみると、小諸藩兵(八〇人ほど)は砲声を聞くと退いて帰藩しようとし、上山藩兵(五〇人余)は去ろうとしてはまた止まる、松本藩兵(六〇〇人ほど)は松代藩の厳重の催促があってやっと丹波島から川北に進軍するという状況で、いずれも戦地より五、六里(二〇~二四キロメートル)も後方に駐陣していたというありさまであった。