北越への出兵

13 ~ 22

飯山戦争に先立って、松代藩は政府に東山道総督(とうさんどうそうとく)、もしくは監軍(かんぐん)の出張を要請した。政府は、慶応四年(一八六八)四月二十四日、監軍の出張を認めたほか、松代藩に菊花紋章付大隊旗を授与し、近隣応援諸藩の指揮をとるように命じた。これに感激した松代藩は飯山城を厳守するいっぽう、四月二十七日、衝鋒隊(しょうほうたい)を追撃しようと監軍の到着を待たずに先鋒(せんぽう)隊を越後新井宿へ進軍させた。


写真7 東山道総督府軍の印の押された諸印・錦袖 (八田勇所蔵)

 西洋服を着込んだ監軍岩村精一郎が、松代へやってきたのは四月二十八日で、寺内多宮が組子三〇人を連れて矢代宿(更埴市屋代)まで出迎えた。八田慎蔵宅に宿泊した岩村はその夜、真田志摩・大熊衛士らと打ち合わせをし、松代には数日間とどまり、閏(うるう)四月三日に出立、中野に一泊し、翌四日に飯山に入った。

 監軍岩村精一郎の指揮下に入った松代をはじめとする信濃諸藩は、飯山で二手に分かれた。一手は閏四月六日に千曲川を北上し、大滝村(飯山市)に着陣して小千谷・十日町方面に備え、本隊は翌七日に飯山を出立し、その日の夕刻新井宿に到着した。松代藩の三番小隊(隊長吉村左織・隊員四五人)に属して従軍した飯島亀蔵の「慶応四年 北越出張日記覚」によると、三番小隊は本隊とともに飯山を出発し、閏四月二十日昼まで新井に滞陣、この間の閏四月十五日には各兵士に「金襴(きんらん)御印」が下げ渡された。新井宿に集結した松代藩の兵員は、先手が六二〇人(新井宿在陣は四月二十七日から閏四月二十日昼まで)、奇兵(きへい)隊が七〇人(同四月二十七日から閏四月十三日昼まで)、後詰が三一四人(同四月二十八日から閏四月十三日昼まで)、本陣が二四八人(同閏四月七日から同月二十日昼まで)、後詰が二四〇人(同閏四月十三日から同月二十日昼まで)、計一四九二人を数えた。新井宿の滞在費は、四月二十七日から閏四月十七日までが一泊一人六四八文、閏四月十八日から同二十日までが一泊一人七四八文で、兵員のみで銭一万五七八五貫八四八文(約千六百四十四両余)を要した。

 閏四月十七日、黒田清隆・山県有朋両参謀が引率した北陸道軍の薩摩(さつま)・長州兵五〇〇〇人が高田に到着すると、岩村に率いられた松代をはじめとする信濃諸藩は、閏四月二十日に新井から高田(上越市)へと進軍した。高田での作戦会議の結果、政府軍は山道軍と海道軍の二手にわかれて越後を北上することに決し、信州の諸藩は山道軍に属し、奥羽越(おううえつ)の諸藩および旧幕府兵との攻防を本格化することになった。

 飯島亀蔵が属した三番小隊は、二十日の夜は川浦陣屋のある番町(ばんまち)(新潟県中頸城郡三和村)に泊まり、そこから安塚(東頸城郡安塚町)・松代(まつだい)(同郡松代町)・千手(中魚沼郡川西町)を経て、閏四月二十七日に当初目的の小千谷(おじや)宿陣屋(小千谷市)へ一番乗りした。二十六日、小千谷の入り口にあたる芋坂・雪嶺での戦いのさい、三番小隊は松代藩軍監渡辺中州の指揮で、松代藩の遊撃隊分隊と松本藩一小隊とともに敵の逃走をはばみ、また、側背から攻撃するために千曲川の東岸を徹夜で進撃、会津兵らの撤退もあって奇襲するまでもなく小千谷に入れたのであった。この陣屋より四里(一五・七キロメートル)へだてた北東の小出宿陣屋(北魚沼郡小出町)では、千曲川を北上した十日町(十日町市)の方面からの松代・上田、さらに薩摩・長州の兵による追討で、二十七日の明六ッ時(午前六時)から撃ち合いがあり、陣屋が五ッ時(午前八時)ごろに焼失し、浪士たちが逃げ去ったとの情報が入ってきた。本隊は、芋坂・雪嶺での激戦をへて二十八日に小千谷に到着したが、以後、飯島が所属した三番小隊も敵と遭遇し、激しい攻防戦を展開しながら長岡、会津まで転戦していくことになった。


図1 松代藩戊辰戦争関係図

 本隊を小千谷においた松代藩は、まず片貝村にいた会津・桑名・旧幕府兵と戦った。五月二日に繰りだした松代・尾州・高田の兵は幸田ノ原で戦い、翌三日の夕刻まで激しい撃ち合いをおこなった。この日、軍監岩村精一郎と長岡藩の河井継之助の会談が決裂し、長岡藩も奥羽列藩同盟方として参戦することになり、榎(えのき)峠、朝日山、妙見などの攻防をめぐって、五月十一日から二十日朝まで激しい戦闘を繰りひろげた。飯島の三番小隊は三仏生村・高梨村(小千谷市)を中心に戦ったが、五月十四日に小頭相沢弁二郎(二二歳・東条村)が銃弾頭部貫通で戦死した。多くの犠牲者を出し、ようやく五月十九日に政府軍が長岡城下に入った。以後、長岡城の奪還(だっかん)をねらう奥羽越(おううえつ)の同盟軍と栃尾・与板・長岡などで攻防戦をおこなうことになった。三番小隊も長岡に入り、しばらく本隊といっしょに見附に駐在し、赤坂や比礼嶺の戦いに応援出動したが、六月十三日からは長岡の郊外、亀崎(長岡市)の砲台の守衛についた。亀崎砲台へは六月二十一日に同盟軍二〇〇人余が夜襲をかけてき、戦闘が四ッ時(午後一〇時)から翌二十二日朝までつづき、三番小隊と八番狙撃(そげき)隊(隊長小幡助市)で弾薬一万発を使う状況であったと、飯島は記している。


写真8 松代藩目付樋口弥治郎の用いたがんどう「松城一番遊軍」と書いてある(樋口和吉所蔵)

 各地で小戦闘が繰り返されていたが、同盟軍が長岡城の奪還を本格化したのは七月二十四日からであった。三番小隊は八番狙撃隊とともに亀崎にいたが、同盟軍の攻撃は激しく二十四日夜八ッ時(二時)より亀崎も大苦戦となり、出張中の目付西山良輔(四〇歳・清野村)が討ち死にし、七月二十六日には朝六ッ時(六時)に吉沢豊三郎(一七歳・東福寺村)が深手を受けた。この日、山の方の長州兵の持ち場が崩れたため、三番小隊も亀崎から桂沢、浦瀬へと退却し、飛礼峠で態勢をととのえた。亀崎村や桂沢村などは火をつけられて炎上しており、途中で兵糧(ひょうろう)荷物・小銃方荷物・大銃一門などを捨て去ってやっとの撤退(てったい)であった。夕五ッ時(六時)になると、長州兵が三五〇人で固めていた場所が崩れ、大垣藩・松代藩の持ち場も崩れ、ついに三番小隊も峠をくだり、飛礼村から一之貝村へ引きとった。そこで少し休むと、もはや明け方になったためただちに出立し、半蔵金村へ行き、ここでようやく朝食と昼食をいっしょに食べ、さらに瀬柄村へ行き、その夜榎峠の守衛についた。七月二十八日の朝五ッ時(八時)すぎに大垣藩と交代し、三番小隊は小千谷に引き揚げて、つかのまの休息をとった。

 長岡城は、七月二十五日に同盟軍に奪還(だっかん)されたが、七月二十九日に再び官軍側の手におちた。三番小隊もこの日の昼過ぎ八ッ時(二時)に長岡へ向けて進軍し、その夜長岡荒町に着き、捕虜にされた人びとの探索に従事した。八月一日には見附町へ出張し、そこに泊まったが、飯島亀蔵は途中の道端・野畦(のあぜ)などには死体が数知れぬほどあったと、戦闘の激しさを記している。以後、官軍は同盟軍を追撃、松代藩も途中の戦闘で犠牲者を出しながら会津をめざした。

 飯島が属した三番小隊は、八月二十四日に五泉(五泉市)に泊まり、九月一日には津川宿(東蒲原(ひがしかんばら)郡津川町)を出立、九月二日に越・奥の境楢木峠を越えて岩代(いわしろ)国耶麻郡(やまぐん)徳沢村(福島県耶麻郡西会津町)に入った。九月四日の小土山の戦いは攻防激しく、各隊とも死傷者を出した。三番小隊はこの日、柴崎から陣ヶ峯峠を越えて応援にかけつけ、同盟軍を館ノ原(耶麻郡高郷村)から広野村まで追撃したが、館ノ原にもどって台場を築き、ここを八日まで守衛した。官軍に追撃された会津兵を主体とする同盟軍は、会津盆地の北端、米沢街道の宿駅である熊倉(くまぐら)(喜多方市)に撤退・集結し、ここを越後口からの官軍の防衛拠点として死守することにした。このため、松代藩兵を主体とする官軍側は熊倉と塩川を攻撃することになり、熊倉へは九月十一日に飯島所属の三番小隊のほか、五番小隊と六番・八番の狙撃隊などが向かった。熊倉における同盟軍の攻撃は激しく、また、松代藩兵は包囲されて多くの犠牲者を出し、塩川行きを途中で中止して駆けつけた七番狙撃隊や六番小隊の援護によってようやく後退できたほどであった。陣容を立てなおした松代藩部隊は官軍会議所の命令によって高田駅(大沼郡会津高田町)へ集結しつつある会津兵を攻撃することになった。このため、三番小隊などが、九月十七日に柳津(やないづ)村から軽井沢村(河沼郡柳津町)へ出、九月十八日には赤留(あかる)村(大沼郡会津高田町)に入って敵を敗走させ、ここを二十二日まで守衛した。若松城は松代藩はじめ、他藩の大砲隊などが攻撃し、ついに九月二十一日に会津藩が降伏、二十四日に若松城が開城となった。赤留を守衛していた飯島亀蔵も九月二十三日に会津城下を見物している。


写真9 喜多方市中里の松代藩兵戦死者の墓 (飯島恒弘所蔵)

 若松城が開城すると、会津残兵の掃討命令が出て、飯島亀蔵が所属した三番小隊などは、現在の会津高田町から大沼郡昭和村へと進み、九月二十八日に吉尾村(昭和村)で降伏してきた会津残兵二人を捕縛(ほばく)、新発田(しばた)への集結令がくだった十月三日には布沢村(南会津郡只見町)に到達していた。帰路は野尻村(大沼郡昭和村)から大谷村(大沼郡三島町)・西方村(同郡同町)をへて若松・越後街道の野沢(耶麻郡西会津町)へと出て、さらに鳥井峠(奥・越境)を越えて十月九日に津川宿(東蒲原郡津川町)に到着した。津川を出立してからは新谷川にそって北上し、十月十四日にようやく新発田城下へ入った。

 新発田に松代藩兵全員が集結すると、同月十六、十七の両日にわたって新発田を出発した。飯島の隊は十六日の出発で、二十一日出雲崎泊まり、二十二日柏崎泊まり、二十四日高田泊まりと歩を進め、同二十八日には先発隊が丹波島宿、後発隊が善光寺宿に泊まった。翌二十九日に両隊は原村と御幣(おんべ)川で昼食をとり、小森村から赤坂を渡った。二軒茶屋で大小銃による祝砲をうち、二列で馬喰町(ばくろうちょう)から伊勢町・中町を行進して大手から御玄関前通り広場に凱旋(がいせん)した。四月二十日に松代を出て以来、じつに七ヵ月にわたる行軍であった。

 北越(ほくえつ)での戦いでは、松代藩は信州諸藩のなかでもっとも多くの戦費とともに、犠牲者を出した。飯山から始まる北越戦争を通して、大砲の弾薬五七一六発、小銃の弾薬九三万五八四九発を使い、出兵総数は三二七一人で、そのうち死者五二人、負傷者八三人を数えた。死者の内訳は兵卒四二人、軍夫一〇人であった(表1)。死亡した兵卒の出身町村は、松代城下町以外では清野が四人、東条・関屋・桑根井・東寺尾が各二人、西寺尾・広田・東福寺・真島・久保寺・長礼・田中・水沢・大岡が各一人の計二一人、軍夫犠牲者の現長野市域関係者は東福寺村の兵糧運夫・義市(二二歳)、清野村の大砲運夫・安之助(二八歳)、北高田村の兵糧運夫・長蔵(三九歳)の三人であった。


写真10 松代招魂社戦死者名碑の裏面 戦死の年月日・場所・年齢が記されている


表1 松代藩 戊辰戦争戦死者 (慶応4年)

 帰藩後の十一月十二日、参朝した総括隊長河原左京はじめ、岡野弥右衛門・近藤民之助の三人に酒肴(しゅこう)が、とくに河原には太刀料として一〇〇両が下賜された。そして、翌明治二年六月には、三万石の賞典禄(しょうてんろく)が松代藩に贈られた。戊辰戦争の戦病死者は妻女山に祭られ、祭祀料(さいしりょう)として賞典禄のうち一〇〇石が真田家から寄付され、毎年四月二十五日が祭日と定められた。