北信濃の民衆と戊辰戦争

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戊辰(ぼしん)戦争はさまざまな形で民衆を巻きこみ、多くの経済的・人的負担を強いた。上田藩は慶応四年(一八六八)二月はじめに、堂上方下向で多分の出費がかさむということで、村々に調達金を命じたが、二月二十七日には再び調達金を課した。このとき、上田藩の飛び地であった川中島の中氷鉋(なかひがの)村へは至急一五〇両を用意するようにと求めてきた。また、翌二十八日には、東山道軍(とうさんどうぐん)の東下(とうげ)にさいして、上田藩が木曽の宮越(みやのこし)宿(木曽郡日義村)から本山(もとやま)宿(塩尻市)までの警備を命じられたので、至急一〇〇〇人分の塩・味噌(みそ)・野菜などを手配するよう村方に命じ、川中島の村々には四〇人分の夜具布団を二十九日夕方までに贄川(にえかわ)宿(木曽郡楢川村)へ届けるよう申しつけてきた。

 二月二十八日の夜、川中島の村々は寄り合いを開いて協議し、調達金は三月金納に割りこませて集め、夜具は稲荷山村に頼むことにした。川中島五ヵ村が決めた上納額は、三月金納分五六〇両、調達金四四〇両、計一〇〇〇両で、中氷鉋村が一五〇両(うち調達金六六両)、戸部村が二五五両(同一一二両)、今里村が二〇八両(同九二両)、岡田村が二六七両(同一一七両)、稲荷山村が一二〇両(同五三両)を拠出することにした。東山道軍の通行に関しては川中島組からも人足が徴発され、宮越宿から洗馬(せば)宿(塩尻市)までを警備した。それらに要した費用は、夜具の二五両を含めて二〇五両三朱と銭八五二文となり、中氷鉋村が二七両余、戸部村が四九両余、今里村が四一両余、岡田村が五六両余、稲荷山村が二九両余を負担した。このほか、三月には中山道和田宿(小県郡和田村)への官軍通行の人馬継ぎ立て入用に差し支えた小県(ちいさがた)郡武石(たけし)村から依頼があって、川中島六ヵ村で一〇〇両を武石村へ融通している。当時、上田藩は領内を塩田・洗馬・国分寺・浦野・田中・塩尻・小泉・川中島の八組と武石村にわけて支配していたが、川中島組と武石村はセットで扱われることが多く、このような関係から武石村が川中島の村々に借金を申しこんだものとみられる。

 北越戦争の負担も大きかった。慶応四年四月二十八日、越後への軍夫交代が上田藩から達せられ、川中島組へは中氷鉋五人・戸部八人・今里七人・岡田八人・稲荷山五人の計三三人が割り当てられた。今里村の慶作・喜三郎・幸作・千代次・金作・勝之丞・逸作の七人をはじめとする三三人は、翌日の二十九日に宰領(さいりょう)(旅の責任者)の小林彦一郎と馬場六之助に率いられて、待ち合わせの中氷鉋村を出立していった。当初は一ヵ月交代であったようで、四月一日から五月一日まで派遣された軍夫三三人の費用は二〇四両(一日一人銀一二匁)、それに宰領人の費用や探索費用などが加わって、総額が二七六両一分二朱となり、これを五ヵ村で負担している。七月一日には、上田藩の軍夫一九九人が越後へと向かった。このときには川中島組へは一八人が割り当てられ、中氷鉋二人・戸部四人・今里三人・岡田五人・稲荷山四人が出立している。また、越後へ赴いている藩の軍夫宰領人からは、軍夫手当金として二〇〇両を送るようときどき催促が届けられ、そのつど領内の八つの組に割り当てられた。しかし、毎回二〇〇両を送ることはできなかったようで、五月二十五日に二〇〇両、六月二十日に一〇〇両、八月二十三日に一五〇両と送金している。こうした送金のさいの各組への割り当て金は均等で、二〇〇両のときには一組当たり二五両負担で、川中島村々は武石村と折半(せっぱん)して一二両二分、一〇〇両のとき(一組一二両二分負担)には六両一分、一五〇両の場合(同一八両三分負担)には九両一分二朱を負担している。

 慶応四年七月十七日、上田藩はまたまた村々に大々的な調達金を課した。沓掛宿の新関門の守衛と四月以来ますます増える北越への出兵に対処するためであった。たび重なる調達金に、藩当局も心苦しさがあったようで、「殿様も心痛しており、このたびは在・町役人や身元のものへ殿様のお手許品(てもとひん)を下げ預けるので、ぜひとも金子の才覚をしてほしい」との達しであった。お下げ預け品として、日光山公寛御親王御筆一軸をはじめ、浦山盆石一箱、堆朱(ついしゅ)巻物台一箱、呉州御中皿五枚一箱、御屏風山水一双など一四点をあげている。川中島五ヵ村へ課された調達金総額は一九〇〇両で、中氷鉋村が二五三両、戸部村が四四四両、今里村が三四一両、岡田村が四七三両、稲荷山が三八九両を負担することにした。中氷鉋村の場合、割り当てられた二五三両を、中組が一九人で一一二両、北組が一四人で六六両、境組が一二人で五五両、このほか青木左古右衛門が二〇両と引き受けている。四六人の一人当たり平均拠出額は五・五両であったが、一七両が三人、一五両が一人、一〇両が四人、八両二分が一人、七両が三人を数え、最低額は二分の一人であった。村々では七月二十三日、八月二十日、九月二十日の三回にわけて納めることとした。

 北越戦争に信州で一番多く出兵させた松代藩でも、在方・町方を問わずしばしば才覚金の調達がおこなわれた。松代城下町では慶応三年十月に二〇〇〇両を拠出し、さらに、同年十二月から明治二年八月までに至急入用との通達で二〇回にわたって一万九〇〇〇両を用立てた。とくに戊辰戦争で下筋への送金がとりわけ緊急であったために、元町同心や各町の名主・長町人(村方の長百姓に相当)たちが軒別にかけまわって差し出させたが、それがたびたびにわたったので、難渋を申し立てるものがしだいに多くなり、昼夜を分かたず訪問しては種々申し諭してやっと出金させた状態であったという。寺院からの献金もおこなわれ、現長野市域の松代藩領寺院だけで三八六両余が拠出された(表2)。


表2 現長野市域松代藩領寺院の戊辰戦役献金一覧

 いっぽう宿場町においても北越への各藩兵の往来できわめて忙しく、また、経済的にも多くの困難がともなった。善光寺宿では北陸道鎮撫総督(ちんぶそうとく)の通行があったが、帰洛(きらく)後に沙汰(さた)するということで宿料などの支払いはなく、宿泊させた宿屋では経済的に窮地におちいるありさまであった。このため宿屋からは立て替え要求が出され、けっきょく、善光寺領の町・在で負担することになった。要求額五〇〇両のうち、三五〇両は寺領高割りにし(高一石につき銀二一匁掛かり)、残り一五〇両は町方の身元相応のものへ引き受けさせることにし、その出金方法は六段階、すなわち、上分が三両二分と三両、中分が二両二分と二両、下分が一両二分と一両とした。こうして町・在一一ヵ所の名主を招集してそのむねを伝え、慶応四年四月十日から集金を始めている。稲荷山宿では同年八月、頻繁(ひんぱん)な諸家の通行で、宿場ばかりか助郷(すけごう)村も難渋しているので、助郷村を増やしてほしいと上田藩に訴えている。稲荷山宿への助郷村は、川中島の岡田・今里・中氷鉋・戸部の四ヵ村であったが、上田藩分知の塩崎・今井・中氷鉋の三ヵ村に三分七厘五毛、上氷鉋村に二分五厘の助郷を、当八月から明治二年七月まで申しつけてほしいというものであった。

 戊辰戦争が終了すると、明治元年(一八六八)十月から十一月にかけて、各藩兵がぞくぞくと北越から帰藩の途についた。官軍駅路方取締役からは小千谷口から一手、高田口から一手が帰休するので、両道とも日々人足二五〇〇人・継馬一〇〇匹あて用意して、差しつかえなく継ぎ立てるように指示が出されていた。このため善光寺町や丹波島宿が、十月十五日から十一月十日までの間に準備した総数は、人足六万六七三九人・馬二〇九〇匹であった。十月十五日から二十二日までは大勢の通行があり、日々三〇〇〇人から四五〇〇人ほどの人夫を備えて対応したが、通行量は順次減り、結局、二六日間に人足四万四一三人・馬一三七八匹が不用となってしまった。不用人馬には手当金が出ないために、その支給をめぐって両宿では、明治二年一月に手当てを出してくれるように松代藩へ嘆願している。官軍の宿場賄(まかな)い料などが政府会計官から下げ渡されたのは、約一年後の明治二年六月であった。長沼村が一六両余、新町(あらまち)村が二八九両三分、吉田村が三二両、善光寺町が八六〇両三分二朱、丹波島宿が三六四両一朱、善光寺町・丹波島宿八五六両、松代町が一一五両三分、川田宿が一〇七両一分であったが、民衆にとって長期にわたる未払いは、北越への従軍や才覚金の拠出とともにきびしい犠牲を強いられるものであった。


写真11 官軍通行による臨時助郷人足遣 (西之門町共有)