幕末期、現長野市域には松代・上田・飯山・椎谷(しいや)・須坂の各藩領のほか、幕府領・善光寺領・旗本領が存在していた。市域の大部分が松代藩領および松代藩預り領であったが、問御所村が椎谷藩領、三才(さんさい)・田子(たこ)・吉(よし)の三ヵ村が飯山藩領、今里村・中氷鉋村の一部と戸部・岡田の二ヵ村が上田藩領、塩崎・中氷鉋・上氷鉋・今井の四ヵ村が旗本塩崎知行所、今里村の一部と栗田村(一部分戸隠神領)が幕府領で中之条および中野陣屋支配、長野・箱清水・七瀬・平柴の四ヵ村が善光寺領であった。
慶応三年(一八六七)十二月、王政復古の号令によって新政府が成立すると、翌四年二月、東山道鎮撫総督(とうさんどうちんぶそうとく)は信濃の旧幕府領の当分取締りを尾州藩へ命じた。信濃の旧幕府領を接収するために、尾州藩の中川庄蔵らが三月二日に木曽福島を出立した。彼らは三月六日夕刻に埴科郡中之条村(埴科郡坂城町)の名主嘉十郎宅に到着し、さっそく中之条・中野・御影の三陣屋手代から請書を提出させた。そして十三日までに中之条・御影両陣屋の接収を終え、十五日夕刻に中野陣屋へ入った。これによって、旧幕府の各陣屋には「天朝御料尾州取締所」の看板がかかげられたが、現長野市域では今里村の一部と栗田村とがその支配下に入ったのみで、ほかの村々ではこれまでどおり各藩の支配がつづいた。
しかし、このとき、妻科・腰など現長野市域に多く存在した松代藩預り領の村々では尾州取締りになることを期待していたようで、中川庄蔵は上司の生駒頼母(いこまたのも)らに、「松代藩預り領では、信濃国の旧幕府領すべてが御取締りになるのに、いまだ私ども村へは請書の沙汰(さた)もないが、さっそく御取締りになるようにしてほしいと願いでる村が多い。松代預り所の儀は 御総督府においてしばらく御吟味の訳があって、尾州御取締りにはならないと申し聞かせると、いかにも残念という風で、繰り返して御家の御取締りになるようにしてほしいと申し立てる」と、そのようすを報告している。
こうしたなか、慶応四年四月、政府は府・藩・県三治制とその職制を定めた。これが信濃にも適用され、八月二日、信濃の旧幕府領をもって伊那県が創設されることになった。現長野市域では今里の一部と栗田村が伊那県管轄となったが、引きつづき尾州取締所の支配がつづいた。十月四日に伊那県知事北小路(きたこうじ)俊昌が飯島(上伊那郡飯島町)に着任したが、伊那県の直轄行政は県庁所在地の飯島を中心とする村々に限られ、今里村の一部と栗田村は、中野・御影・中之条役所付きの村々とともに依然として尾州取締りのもとに置かれた。
尾州取締所に残された村々が、正式に伊那県に移管されたのは、翌明治二年(一八六九)四月から五月にかけてで、尾州取締所役所が置かれていた地に局が開設されたことによった。中之条役所へは、五月三日、伊那県権(ごん)判事村松文三らがやってきて、その日のうちに尾州藩から支配村々を受けとり、ただちに伊那県中之条局の開局を村々に布達した。中野役所へは権判事下方弥七郎らが入り、五月六日に中野局を開いた。中之条局では開局の翌日に村々に「伊那県布令書」を下げ渡し、村人に読み聞かせることによって伊那県政の基本方針の徹底をはかり、中野局では開局当日に郡中代(ぐんちゅうだい)・郡中取締役・取締役の廃止を申し渡している。民心の収攬(しゅうらん)と村々の直接掌握に向かって伊那県政がスタートしたのである。
伊那県の創設によって、旗本知行所の支配も変わることになった。旗本は中・下太夫となり、いったんは本領が安堵(あんど)されたが、しだいに伊那県の管轄下に組みこまれていったのである。明治元年(一八六八)十二月三日、伊那県庁に呼びだされた塩崎知行所松平欽二郎(忠厚)の名代(みょうだい)は、伊那県官吏から家督(かとく)・隠居・生死等その身に関する願い・伺い・届けはまず伊那県へ申し出すこと、民政に関する諸事件はすべて伊那県庶務方へ差し出すことを申し渡され、ついで十二月二十二日には来春までに知行所を伊那県へ引き渡すように命じられた。そして、翌二年三月十日、伊那県は、中太夫以下の知行所の郷村を三月九日に受けとったこと、松平欽二郎知行所村々は当分のあいだ、尾州取締所中之条役所において諸事を取り扱うことを布達した。こうして塩崎・中氷鉋・上氷鉋・今井の四ヵ村は伊那県となったのである。知行所の上知によって、明治二年四月二日には、松平家の在郷(ざいごう)家臣であった宮崎源十郎・松林通泰・宮崎軍治・清水吉次郎・矢島磯五郎・風間兵太・風間勘一郎・荒井勝五郎などが目付から帰農を申し渡されている。
いっぽう、支配が変わらなかったとはいえ、信濃の各藩でも大きな変化が起こっていた。殿様が版籍奉還(はんせきほうかん)を上表し、知藩事となったのである。知事任命は、上田藩が明治二年六月十九日、飯山藩が六月二十二日、松代藩が六月二十四日であった。知藩事となったことは、これまで封建領主であった殿様が政府の地方官となったことを意味した。以後、政府の意向にそった改革が各藩でつぎつぎとおこなわれることになった。
松代藩では、まず明治二年九月に藩主家族の家禄を一万二〇〇〇俵(一万七一四二両余)に制限し、十月には藩治職制等改正民間心得として、つぎのような触れを出した。①郡役・苗字(みょうじ)帯刀・上下(かみしも)着用等御免のものは、その時々ならびに代替わりの節にその筋の役人へ配りものをしてきたが、今後はその儀におよばないこと。②公事(くじ)や訴訟(そしょう)、そのほか年頭・寒暑の付け届けはこれまたその儀におよばないこと。③村方へ役人出役(しゅつやく)の節の賄(まかな)い方は、今後上下の別なく粗末な品にて一汁一菜のほか決して出さないこと、もちろん酒も出さないこと。④手付のものが村方へ出役したとき、御用の有無にかかわらず村役人をすべて詰めさせていたが、今後は名主と惣代一人でよいこと。⑤村方も今後は諸事を簡易にし、無用の費えをなくすようにすること、などである。
明治二年十二月には、藩士の給禄と職制の改正をおこなった。家禄は政府の方針で支配地総石高の一〇パーセントと決められたために、給禄をその割合で改正し、支給方法もすべて藩庫から直接支給する蔵前渡しとした。たとえば、一四〇〇石取りのものにはその一〇パーセントにあたる籾(もみ)二〇一俵四斗四升、また、五〇石取りのものにはその六九パーセントにあたる籾五〇俵を支給することにしたのである。職制改正では政事所のほかに、神社郡政、計政、市政、学政、兵政、監察の六局を置き、職名も家老などの呼び方がなくなり、大・小参事、書記、主事、庶務長、租税司、営繕司、司金、商法掌、筆生、捕亡(ほぼう)となった。こうした改革にあわせて、十二月十六日、これまで役人の自宅を役所にしていた宅役所を廃止して公廨(くがい)(公の役所)を開き、公廨新道を南大路と唱えることを布達し、さらに、同三年正月二十二日には、諸職員は今後毎月一・六の日は休暇となるので、諸願い・伺い・届けなどは臨時・至急のほか一・六の日には差し出さないことを村方に触れている。
藩が存続したとはいえ、版籍奉還は知藩事の任命、地方(じかた)知行の廃止などによって殿様と藩士、あるいは殿様・藩士と農民の関係を薄くするいっぽう、給禄および職制改正に道をあけ、藩県の地方組織の統一化と官僚化を進めていったのである。