信濃県藩連合と松代藩

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伊那県政が本格的にスタートし、また、松代藩などでは版籍奉還(はんせきほうかん)、それにともなっての藩政改革があったとはいえ、明治二年(一八六九)も多くの人びとを苦しめる問題がつぎつぎと起こった。貨幣・紙幣の幣制の混乱と凶作が農民の生活をおびやかしたのである。

 幣制の混乱には、政府発行の太政官札(だじょうかんさつ)が大きくかかわっていた。慶応四年(明治元)閏(うるう)四月十九日、政府は財政の確立と殖産興業(しょくさんこうぎょう)を名目に太政官札の発行を布告し、五月十五日から流通させた。種類は一〇両・五両・一両・一分・一朱の五種類で、各藩への貸付け基準は一万石に一万両とした。明治元年末段階、信濃諸藩の拝借総額は二三万両であった。とくに松代藩の拝借額が多く、六月に一万両、八月に二万両、九月に二万両、十月に五万両、十一月に五〇〇〇両と、明治元年だけで一〇万五〇〇〇両にのぼった。戊辰戦争の戦費を藩財政だけではまかないきれず、領内から金銭を徴発するいっぽう、政府から太政官札を拝借したのである。しかし、政府の体制がととのわない時期であり、また、初の不兌換(ふだかん)紙幣ということで太政官札の人気はなく、政府が再三にわたり太政官札を正金(しょうきん)(江戸幕府発行の金銀貨幣)同様の通用とすると布達したにもかかわらず、太政官札は歩付き(正金より割引)でしか通用しなかった。ことに戦地では通用せず、このため松代藩では領民を諭してあらゆる階層からわずかな金銀まで太政官札に引き換えさせてかき集めていた。また、宿場では戊辰戦争で通行する諸藩が太政官札で旅籠代(はたごだい)などを支払ったので、多くの人びとが太政官札を所持するという状況にあった。


写真13 明治元年に政府が発行した太政官札
(八十二文化財団「信州の紙幣」より)

 こうしたなか、政府は、明治元年十二月四日に金札の時相場(割引通用の時価)通用を許可し、ついで同二十四日には諸上納については太政官札一二〇両を正金一〇〇両にあてるとする公定相場を布告した。政府が自ら太政官札の歩付きを公認したため、太政官札の価値はいっそう下がることとなった。善光寺町周辺では明治二年一月中旬ごろから太政官札の流通が悪くなりはじめ、二割引き、三割引きと日々太政官札の価値が下落し、二月上旬には四割引き、さらに五割引きでも通用しなくなってしまったのである。太政官札を所持していた農民たちの経済的損失はきわめて大きく、貧しい農民や賃労働を主たる生活の糧(かて)にしていた人びとほど、太政官札の下落による打撃がひどかった。こうした状況から政府は、四月二十九日、再び太政官札の正金との等価通用を布告した。歩付き通用をおこなった場合の罰則規定まで示して太政官札の通用をうながしたが、農民たちの太政官札への不信は強く、五月末になっても蚕種紙の買い入れも太政官札ではできないありさまであった。松代藩でも政府の意向を受けて、六月六日、村々に太政官札の正金同様通用をきびしく通達、また、藩吏(はんり)を廻村させて請書の提出を求めなければならないほどであった。

 太政官札で損をした農民たちは、正金の獲得に走っていたのである。商品作物の代金はもちろん、銭貨まで売って、二分金などの正金にかえるという現象であった。善光寺町の大商人のなかには、この機に乗じて東京でドロ銀と呼ばれる一朱銀や一歩銀などを買い集めて持ち帰るものもおり、また、今井某出入りの商人もさかんに台が真鍮(しんちゅう)や銀でできた二分金(贋(にせ)二分金)を善光寺町へ持ちこんだといわれる。こうした結果、まず銭が払底(ふってい)してきた。五月ごろまで銭の両替値段は、金一両につき一一貫四〇〇文ぐらいであったものが、しだいに値上がりし、七月中旬になると七貫文ぐらいという状況になった。ことに、善光寺町の商人の多くが在方や山中へ銭買いに出向いたことから、場所によっては銭相場が六貫五〇〇文ぐらいまで値が上がるという始末であった。いっぽうようやく手に入れた二分金が贋金だといううわさが、早いところでは五月ごろからたち始め、二分金もしだいに通用しないようになっていった。盆・暮れ二季の勘定取引にあたる七月十三日、善光寺町では例年とちがって夜に掛け取りに歩く商人は一人もおらず、昼間のみ歩いたという。贋金が多かったので取り損にならぬようにとの自衛策であった。


写真14 贋二分金と贋二分銀
(八十二文化財団「信州の紙幣」より)

 銭の払底、二分金の不通用に加えて、天候不順により凶作年の様相がしだいに強まってきた。現長野市域でも春中は雨が降りつづき、五月は日照り、田植えがすんだころから再び雨降りとなり、作物の生育が遅れ、木綿などの収穫は皆無といわれた。また冷気も強く、おまけに七月十三日には大風雨となり、なんとか育った作物も吹き倒れ泥まじりとなる騒ぎがあり、山方などではようやく稲が出穂したものの、その後の成長がおぼつかないというようすであった。このため、米価をはじめ諸物価が高騰(こうとう)してきていたが、七月下旬、銭相場が政府の布告で一両=一〇貫文となり、一気に下落する事態が起きた。これを機に八月にかけて物価が急騰したのである。善光寺町でも上米が六月下旬まで一両に一斗三、四升であったものが徐々に高騰し、銭相場の下落を機に六升五合ぐらいまで急騰した。米穀商人は新顔の客には品切れといって売らず、米の仲買人のなかには休むものもあって、しだいに人気が悪くなっていった。松代藩ではすでに七月二十五日に、贋金を流布(るふ)したかどで善光寺町で一九人、三輪村で二人を捕縛(ほばく)していたが、善光寺町近在や山方の村々では贋金をひろめたものをこのまま許すな、打ちこわしにせよなどと騒ぎ、また、ところどころに非難の張紙が張りだされるなど、しだいに不穏な情勢となっていった。

 こうした状況は、若干の時間的ずれはあったものの他の藩領でも同様で、七月はじめの飯田二分金騒動を皮切りに、八月には十六日から上田騒動、二十五日からは会田・麻績(おみ)騒動、二十八日からは小諸の川西騒動が起こった。年貢の引き下げ、二分金の引き換え、米価の値下げが主要な要求であった。とくに飯田二分金騒動に接した伊那県と信濃諸藩では、事態を重く見、共同で対処するため信濃全国通用銭札を発行することを決めたり、八月六日には伊那県下問(かもん)会議を開き、諸藩の民心の動静をはじめ、贋金の流通状況とその対策、小売米の払底とその救済方法などについて話し合うなど、藩県をこえて対応していくことになった。

 松代藩では、七月十九日、二分金引き換えのために済急(さいきゅう)手形を発行することを布告し、上田騒動の波及(はきゅう)をおさえようとした。善光寺町では、会田・麻績騒動のころから騒動のうわさがたった。はやくから「贋金使いの親方」と他領の農民たちからもうわさされていた今井某に対しては、町方の貯穀や非常用の日掛銭まで使って悪金を他所(よそ)より買い入れた、などといっそう非難が高まった。善光寺役人はじめ、松代藩の同心・手先たちが昼夜警戒にあたったが、町人のなかには家財道具を近在の知人宅へ預けるものもあらわれ、八月二十八日には大本願の上人(しょうにん)まで大騒動もはかりがたい、と立ち退きの準備をする騒ぎであった。松代藩郡奉行三沢刑部丞も善光寺町に滞在して取り締まりにあたり、不法者として横沢町の善七・藤作・鶴松・勝之助の四人を捕縛(ほばく)している。騒ぎをあおったり、また紙でこしらえた大幟(のぼり)に大きな字で「貧窮人」、その右肩に「八月廿七日」と書いたことが捕縛の理由であった。いっぽう、町方では生活困窮の難渋(なんじゅう)人の救済に力を入れた。まず、極度の難渋人の人数改めをおこなって、一人に二〇〇文ずつ渡して一升一〇〇文値段で一人当たり米二合五勺、一軒当たりでは一升を限度に米を売り渡した。また、八月二十五日晩には、大門町の高田屋茂兵衛と増屋太吉が難渋人に一軒当たり五貫文ずつを配ったほか、藤井伊右衛門と増屋太七が三〇〇両、西之門町の海老(えび)屋正左衛門と新町(あらまち)の藤沢長治郎が二〇〇両、計五〇〇両を拠金し、これをもとに安米売りを実施した。

 伊那県中之条局では、明治二年八月二十六日に管轄下の更級・小県両郡の村役人を集め、救助として拝借金を貸し下げるので、蓄財貯穀(ちくざいちょこく)のあるものは米倉を開けて米を売り出すようにと命じた。両郡一一ヵ村への貸し下げ金は太政官札三〇〇両であった。そのうち更級郡の四ヵ村では二一〇両を借用し、その日に塩崎村が一二五両、今井・上氷鉋(かみひがの)・中氷鉋の三ヵ村が八五両と振り分けた。川中島の三ヵ村は、翌二十七日、今井村が四〇両、上氷鉋村が四〇両、中氷鉋村が五両とし、今井村では四〇両を九月一日に本郷一一両、町組一一両、東組九両、西組九両と分けている。今里村では、八月に中之条局から極難者お救い金として四両を拝借、さらに、お救い米代として一三両二分の割り当てを得た。お救い米代は四軒二九人へ六両三分が配分されている。このほか、名主久衛が同村の中之条局支配と上田藩支配の貧民へ、それぞれ籾五〇俵を貸し渡したのをはじめ、名主丹治が中之条局支配の貧民へ籾四俵を貸し渡すとともに、両支配の貧民へ大麦二俵と金三両をほどこした。なお、久衛は小県郡の和田・長窪両宿の貧民へも二〇〇両を貸し渡している。

 藩札の発行や豪農商の施米・施金などによって、松代藩や中之条局下の村々ではなんとか大きな騒ぎまでにはいたらなかったが、依然として一触即発の危機はつづいていた。こうしたなか、小札や銭の払底を解消するための、信濃全国通用銭札(以下信濃全国札と略称)が刷りあがり、明治二年九月晦日(みそか)に発行が布達された。これは、さきにみたように信濃の諸藩県が共同して危機的状況に対処しようとした施策の一つであった。造幣された銭札は、一貫二〇〇文・六〇〇文・一〇〇文の三種類で、裏に各藩県局の証印をおして発行主体を明確にしているが、藩県の領域をこえて信濃一国を流通範囲とした点で画期的なものであった。発行額は村高一〇〇〇石に一二〇両の割合で、中之条局などが十月一日、松代藩が十一月二十一日から流通させた。とくに、松代藩証印の信濃全国札の流通額が多く、一万四八二九両にのぼった。太政官札と信濃全国札との引換所は、中之条局や中野局では局指定の豪農商宅、松代藩では計政局に設けられた。信濃全国札は、年貢など諸上納に使用できたばかりでなく、金札や藩札の補助紙幣として流通し、また、贋二分金を担保に貸し出されたことから二分金対策にも活用され、金融閉塞(へいそく)状況を打開し、ひいて経済を活性化させるうえで大きな役割を果たした。


写真15 明治2年9月に発行され、信濃一国を流通範囲とした信濃全国通用銭札
(八十二文化財団「信州の紙幣」より)