中野県設置と中之条局の廃止

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藩札や信濃全国札の発行でひとまず民心の動揺をおさえたが、贋(にせ)二分金問題が解決したわけではなく、一触即発的社会状況の回避(かいひ)は信濃藩県にとって、依然として緊急かつ重要な課題であった。ところが、政府は、明治二年(一八六九)十月二十四日、贋二分金の回収を命じ、そのさい贋二分金一〇〇両を太政官札三〇両と引き替えることを布達した。しかし、贋二分金をつかまされている民衆に致命的打撃をあたえるこのような回収令は、民情を知り騒動をおそれる藩県当局にとっては、とうていそのまま実行できるものではなかった。

 伊那県では、十一月下旬に飯島付き村々の豪農商を呼び集めて対策をねった。その結果、県のほか、豪農商に出資させて伊那県商社を設立することになった。その構想は、①伊那県商社を県下の五ヵ所に設置する。②二分金の預かり札(県札)五〇万両を製造し、三〇万両は二分金の引き換えに使い、二〇万両は年一割の利息をもって横浜商いのものに貸し渡す。③商社では村ごとに一人別に書きあげた二分金をすべて預かり、かわりに預かり札を渡し、租税の納入もそれでおこなわせる。④生糸・蚕種紙などのすべてに県の改印を受けさせ、指定の横浜売込問屋をとおして外国人へ売り渡す。⑤一三ヵ年を期限として、預かり札を廃止する、というものであった。すなわち、商社を設立して五〇万両の県札を発行し、県内の商品流通を独占して得られる貿易利益と貸金利益によって、贋二分金と政府発行の太政官札との等価交換を実現させようというものであった。

 中野局に置かれた商社は北信商社、中之条局のものは中信商社と呼ばれ、商社掛に任命された豪農商は北信商社が一四人、中信商社が二一人であった。現長野市域からは今里村の更級久衛、今井村の惣三郎・伝蔵の三人が中信商社人に名を連ねている。事態が緊迫していたことから商社人の陣容がととのうと、十二月二十日ごろから二分金と預かり札との引き換えを実施し、預かり札を二分金の代幣として通用させるいっぽう、預かり札による年貢の収納もおこなった。年貢上納に使われた預かり札は、商社人たちが正金や政府発行の太政官札にかえ、なお不足の分は自らの土地を担保にするなどして政府から太政官札を借り、年貢上納を果たしたのである。こうして集められた二分金は、中野局が二万七三五二両、中之条局が二万四三六四両で、それぞれの七六パーセントにあたる二分金が贋金であった。

 伊那県商社がこうした事業を始めてまもなく、政府が県札の発行を認めないということになった。明治二年十二月に布達された府藩県札類の停止令である。これによって、伊那県商社の構想は早くも挫折(ざせつ)することになった。伊那県と伊那県商社では、商社規則の見直しをはかり、北信商社では商社人以外から差加え金を出資させ、事業の継続をはかった。中信商社でも前立金という名目で出資させようとしたが、今井村では、明治三年七月、丹治・与惣左衛門・興左衛門・三平・平七・助四郎が代表でその赦免(しゃめん)を願いでている。これに対して政府は、明治三年五月ごろから伊那県が、商社に連なる豪農商と結託して儲け仕事をおこなっているという疑いをもち、六月ごろから調査に乗りだし、租税金の不正貸付け、等価交換による贋金回収、オランダ商社との不正貸借関係などをきびしく追及した(伊那県商社事件)。この事件の終結は翌四年五月であったが、これをきっかけに明治三年六月に北小路俊昌にかえて千種有任(ちぐさありとう)を知事に任命、さらに、七月には信濃各藩や豪農出身者が多かった伊那県官吏を大量に罷免(ひめん)し、政府直属の実務官僚として高石和道・山下宗一郎・永山盛輝らを送りこんだのである。

 伊那県知事に任命された千種有任は、赴任にさきだって伊那県の分県を民部省に内申していたが、高石や山下らの着任でそれがいっそう進展した。明治三年八月十四日、高石と山下は、伊那県の管轄が南北一〇〇里・東西三〇里と広範囲で、分局が五つもあって官員の往復・回村の出費も多く、また、官員も多く気脈も通じないし、政令も徹底できないなどの理由をあげて、伊那県から中野県を分県することを弁官伝達所に願いでた。出願の背景には、各局に少参事らが出張して、事実上本庁同様の庶務を取り扱っていることのほか、規則改正で官員数がこれまでより減ったという実情もあったが、伊那県政の急務が依然として世直し騒動勃発の回避にあり、また、七月に出された検見規則の施行による貢租の増徴も大きな課題とあって、支配の強化が必要であったのである。この願いは、民部省の理解を得、明治三年九月十七日、「今般、伊那県分県中野県置かれ候事」と太政官布告された。中野県は、伊那県三二万三一〇六石のうち、御影・中之条・中野の三局が支配していた東・北信分一五万四四七二石余をもって設立されたのである。現長野市域では今里(一部)・中氷鉋(一部)・上氷鉋・今井・栗田(一部)のほか、これ以前の明治三年六月に伊那県管轄となっていた元松代藩預り領の荒木・千田・栗田・権堂・富竹・金箱・上駒沢・下駒沢・三才、長沼の上町・六地蔵・内町・赤沼などの村々がその管轄下に入った。

 中野県が創設されると、中之条局が廃止されることになった。これは、分県前からの既定の方針で、村々にもそのうわさが広がっており、すでに明治三年八月二十九日には更級・埴科両郡据え置きの嘆願をどこまでもしていこうと、村をこえた会合さえもたれていたのである。しかし、明治三年十月八日、山下宗一郎の検見回村で中之条局廃止が現実のものとなった。中之条局へやってきた山下は、招集した名主たちを前にして、伊那県が分県されて中野県が設けられたこと、中之条局付きの埴科・更級両郡の村々は中野県の直接支配になること、中之条には官員を少数置いて軽い願い・届けは処理させるが、それ以外はすべて本県へ直接願いでること、などを正式に申し渡したのである。名主たちは請書を提出して帰村したが、農民たちは納得せず、中之条・坂木・金井・横尾(埴科郡坂城町)の村役人たちをつきあげ、埴科郡の村々に招集をかけさせた。局が廃止されると、貢租をはじめ、公事(くじ)出入りなどでいちいち中野まで出向かなければならず、これまで以上に多くの負担を強いられることになるからであった。翌十月九日、山下を追って、埴科郡一四ヵ村の農民数千人が蓑笠(みのかさ)姿で押しだした。山下はすでに高井郡綿内村(長野市)にさしかかっていたが、松代藩からの急使によって事態を知り、新田村(更埴市)まで戻り、そこで埴科郡一四ヵ村の名主たちから願意を聞くことになった。名主たちは、これまでどおりに局を置くこと、それがかなわないときには松代藩管轄にするようにと迫ったが、山下は、願意のむねは速やかに朝廷に報告するので、指令があるまで平穏に待つようにと諭し、ひとまず一揆勢(いっきぜい)を帰村させた。


写真16 旧中野県庁跡

 その後、中野県は一揆参加者の取り調べを開始したが、吟味の結果、強訴(ごうそ)とは認めることができず、村役人に過料、組頭と小前総代に「急度(きっと)お叱(しか)り」、百姓代と小前に「お叱り」という軽い処分で、この問題を決着させた。しかし、農民たちの願いは無視され、山下の口達どおり、大島少属以下三人を残すだけの軽い役所として存続させ、今井・今里・中氷鉋・上氷鉋など更級郡・埴科郡の村々への中野県の直接支配が始まったのである。