松代・中野騒動と民衆

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明治二年(一八六九)十二月の藩札類の通用停止令で、再三の通用延期願いにもかかわらず、信濃全国通用銭札はついに三年七月晦日(みそか)限りで通用禁止となった。政府は、藩札類の発行が一揆を頻発(ひんぱつ)させる元凶(げんきょう)であり、また中央集権体制を築く障害となるととらえていたためである。

 政府の強圧によって、信濃全国札を核に一触即発(いっしょくそくはつ)の状況を避けようとした信濃の藩県連合体制が崩れようとしていたさなか、松代藩は、松代商法社(頭取大谷幸蔵)を設立し、明治三年五月に一両・一分・二朱の三種類の商法社為替手形(かわせてがた)(以下、商社札と略称)を発行し、領内に流通させた。政府の詰問にも商社札は商い用の手形であって、藩札ではないと突っぱねて発行したのであるが、そこには、商社札によって領内の物産を買い集め、横浜貿易の利益によって太政官札を得て、それをもって二分金の代幣として発行した済急(さいきゅう)手形を回収しようとのねらいがあった。


写真17 松代藩の一分と二朱の済急手形 (杵淵区有)

 商社札は、更級郡羽尾村(埴科郡戸倉町)の大谷幸蔵をはじめ、彼と関係の深かった数人の豪農商に多額に貸し出された。彼らはこれを大量に用いて、領内外の蚕種・生糸を買いまくった。しかし、農民たちにわたった商社札は、その年の蚕種・生糸の貿易価格の暴落で価値をいっきに下げ、済急手形とともに太政官札の三割、あるいは四割引きでしか通用しない状態となった。こうしたおり、政府は松代藩に明治三年末までに藩札類を引き上げるよう厳命してきた。松代藩を信濃全国札発行の首謀者(しゅぼうしゃ)とみていた政府は、松代藩の私意をこのまま許せば、信濃の一三藩の戒めにもならないばかりか、天下の藩県をしてあげて政府を軽侮(けいぶ)させる基を開いてしまうことを恐れ、これまでになく強い姿勢でのぞんできたのであった。

 流通高三八万両という済急手形・商社札(以下、両者を藩札と略称)の回収に苦しんだ藩当局は、明治三年度の石代納(こくだいのう)分を藩札で上納させて回収することに決し、十一月十三日、石代納の公定相場を籾(もみ)三俵半につき藩札一〇両とし、藩札は太政官札と等価通用と布達した。しかし、東京在駐の権大参事高野広馬が帰藩して事態が急変してしまった。政府の意向を受けた高野は、一揆の発生を懸念していた民政担当者に「朝廷向きが大切か、御支配村々が大切か」と迫り、大参事真田桜山(おうざん)と組んで、さきの布達を破棄(はき)させて、町方には二十二日、村方には二十四日に年貢は籾四俵半につき太政官札一〇両、藩札は二割五分引き通用と再布達したのである。


写真18 明治3年松代藩下の騒擾(そうじょう)日記
(東京大学史料編纂所所蔵)

 十一月二十五日夕刻、ついに農民たちが立ち上がった。藩札の公定二割五分引き通用が農民たちの不満をいっきに爆発させたのである。更級郡上山田村(上山田町)から起こった一揆勢(いっきぜい)は、藩札の二割五分引き通用の撤回と年貢の軽減を要求、さらに、高野広馬・真田桜山ら藩の実権者と商社関係役人、そして商社札を大量に使った大谷幸蔵ら豪農商を攻撃目標に、千曲川の両側の村々を巻きこみながら松代城下をめざした。川西をくだった一手は羽尾村(戸倉町)の大谷幸蔵宅を焼き討ちし、赤坂で千曲川を渡り、二十六日未明、岩野(松代町)へと出た。なかには篠ノ井から川中島平へ押し出したものたちもいた。

 二十六日払暁(ふつぎょう)、岩野村で合流した一揆勢はただちに松代城下に突入した。木町の産物会所、加賀井村の高野広馬宅などを焼き討ちにし、藩庁にせまって桜山や広馬の首などを要求するいっぽう、事態を重くみて大英寺に出向いた知藩事真田幸民(ゆきもと)からは年貢の籾七俵に金一〇両相場、藩札の額面通用、十二月五日からの藩札の引き換えをとりつけた。上山田村など上郷(かみごう)地帯(上山田・戸倉・坂城町)の農民たちが引き揚げたあと、二十六日夕刻から夜半にかけて、今度は松代周辺や川中島平の農民たちが城下をおそった。真田桜山・鎌原溶水らをはじめとする藩士宅や紺屋町の商人宅などを焼き討ちされ、松代城下の被害は焼失一三九軒を数えた。翌二十七日には高井郡や山中の村々からも押し出したが、武装藩兵の出動でようやく鎮(しず)まった。

 善光寺町も一揆勢におそわれた。十一月二十六日、大勧進に「早朝、松代城下に百姓どもが押し寄せ騒動」との風聞(ふうぶん)が伝えられるとまもなく、「西山中より多人数押し寄せ、後町辺に屯集(とんしゅう)」との知らせが入った。それを貫主に伝えようとしているうちに、今度は「もはや大門町へ到来して所々を打ちこわし」「代官今井磯右衛門宅打ちこわし」と、つぎつぎと知らせが届くありさまであった。こうした状況から大勧進では、「町々に乱暴に及び候につき、放火のほどもはかりがたし」と、記録類などの取り片づけに追われている。

 善光寺町をおそった一揆勢は、西山中の村々のものばかりでなく、川中島から丹波島を渡り、中御所で今蔵宅を焼き討ちしたあと、石堂に乱入した一手、さらには川北の村々から横沢・後町へと乱入した一手など、さまざまな方面から押し寄せた。このため善光寺町では大門町の一二軒を筆頭に、後町で一〇軒、横町で四軒、東町で三軒、新町・田町・堂庭・西ノ門で各二軒、横沢・桜小路・諏訪町・荒町・相ノ木・横山・石堂で各一軒が打ちこわしにあった。被害者の職業は旅籠(はたご)・呉服屋・茶・材木屋・穀屋・酒造などさまざまであったが、攻撃対象になった理由は、贋金によるもの(チャラキン連中)が二七人と多く、このほかに高利貸し・質貸し・酒造・岡っ引き・産物取締り・役人など仕事上で日ごろから悪評の高かった人びとで、なかには一揆勢に炊き出しをしなかったり、酒を振る舞わなかったりしたことから打ちこわされた人もいた。一揆勢に対して十一月二十七日、善光寺町と権堂村では一致協力し、火用の筒を持ち出して数砲撃つとともに、山中のものを見つけしだい追い払い、ようやく夕四ッごろ(夜一〇時ごろ)になって落ちついてきた。とくに二十七日夜には、山中村々一同が押し寄せてくるとの風聞があって、市中申し合わせて町々に野陣をおいて警戒にあたった。松代藩でも二十八日に河口左文太と森木一二三を隊長とする銃兵二小隊を善光寺町に派遣し、昼夜警戒にあたらせた。

 松代騒動における現長野市域村々の被害は松代城下、善光寺町にとどまらず、腰村で七軒、三輪村で一三軒、妻科村で三軒、同村新田組で三軒、田野口村で四軒、丹波島村で三軒、広田村で二軒のほか、上松村・加賀井村・西寺尾村・上小島田村・檀田(まゆみだ)村・下布施村・原村・市村・東川田村・二ッ柳村で各一軒が打ちこわされた。さらに、中野県下の川中島の今里村でも被害があった。二十七日朝五ッ時(午前八時)ごろに一揆勢三、四百人がやってき、酒食を要求した。この一隊は酒食の謝礼をのべて通過したが、その日の四ッ時(午前一〇時)ごろ、善光寺町方面から近在の村人を巻きこんだ一揆勢、五、六百人が鯨波(とき)の声をあげて再び押し寄せ、地主兼質屋の久兵衛宅へ乱入した。このものたちは哂(さらし)、浅黄・白木綿などを竹の先に結んで押し立て、それぞれ斧(おの)・鉞(まさかり)・脇差(わきざし)・竹槍(やり)・鳶口(とびぐち)・かけやなどをもち、久兵衛宅では家作や家財道具を打ちこわしたばかりか、衣類や諸帳簿を焼き捨て、松代藩札三〇〇〇両・古金三〇〇両を持ち去った。上田藩下でも中氷鉋村で二軒、戸部村で一軒が打ちこわしと家財焼き捨ての被害にあっている。

 騒動が鎮静した十一月二十八日、松代藩では真田桜山と高野広馬を謹慎とし、士族の入札(いれふだ)によって大参事に河原均、権大参事に山寺常山を選出し、早急に事態の収拾と藩政立て直しにあたることになった。十二月二日には、藩士を村ごとに巡回させて藩知事の申諭(もうしさとし)書によって領民の慰撫(いぶ)をはかるとともに、大英寺で約定した五日からの藩札の引き換えは財政逼迫(ひっぱく)で実行できないむねを説得することにきめた。巡村説得役に任命された藩士は一方面三人ずつで、大豆島から尾張部・長池・北堀方面が高久専之助ら、市村北組から新田川合・松岡・高田・押鐘・和田・﨤目(そりめ)・宇木・三輪・吉田方面が竹内友馬ら、小市から小柴見・妻科・後町・善光寺・腰村方面が小宮山三吉ら、赤田村方面が依田忠之進ら、西寺尾から川合・大塚・氷鉋(ひがの)・小松原・布施方面が堀田速見ら、有旅(うたび)方面が綿貫謙蔵ら、田野口方面が野村隼太ら、茂菅(もすげ)方面が牧野良平ら、西条(埴科)方面が正村勇之進ら、川田から保科・福島(ふくじま)・仁礼・湯田中方面が菅沼清志ら、東福寺から横田・石川・布施高田方面が吉村左織らであった。修験(しゅげん)の皆神山和合院へも日ごろの導師のよしみをもって村々を説諭するように依頼した。

 騒動による被害者への救済は十一月二十七日から始まった。松代城下では藩から焼失人に当面一軒あたり米五斗六升九合余(代金六両一分余)を支給した。善光寺町では十一月二十九日に、大勧進が被害者三八軒に救助籾一俵と金五〇〇疋(ぴき)(一両一分相当)ずつをあたえ、とくに被害の大きかった今井磯右衛門には二五両、今井中三には一〇両をおくった。騒動のおり、白米一二俵(六〇両相当)を炊き出して難をのがれた、後町の鈴木家では町内に見舞金として三〇両を拠出(きょしゅつ)している。松代藩でも、高田貫之助と池村清を善光寺町に出張させて、十二月三日から大門町において米の廉売を実施した。しかし、本格的な救済は明治四年に入ってからであった。支給額は、城下町の焼失人が一〇両一分余(当面の支給米を含め)、村方の場合は焼失・類焼者が一〇両、居宅が打ちこわされ諸品を焼き捨てられたものが五両、居宅と諸品を打ちこわされたものが三両、家具や商いものを打ちこわされたものが一両二分であった。こうした手当て金には、「知事様御機嫌伺」などと称して集められた藩士・村民などからの献上金があてられた。献金額は士族が一万三五五両余、卒族が二三九七両余、村方が七〇九〇両三分一朱と銭一六二六貫九八〇文で、長野市域からも柴村(東寺尾)が八〇人で一〇六両二分二朱、箱清水村が手形一〇〇〇疋(二両二分相当)、後町の北村甚蔵が一六五両を献金している。


写真19 松代騒動について献上金への礼書 (北村修一所蔵)

 明治四年正月、政府は知藩事に年貢の決定権はないとし、民部省名で石代納相場籾四俵半を松代藩領に布達した。農民たちの松代藩知事との約定はくつがえされたが、政府も農民の要求した藩札と太政官札との等価通用までは否定できず、藩札の太政官札との引き換えがおこなわれることになった。

 ところで、松代騒動で一揆勢が知藩事に要求のすべてを認めさせたことが、となりの須坂・中野の農民たちに大きな刺激をあたえた。明治三年十二月十七日に須坂騒動、ついで十九日からは中野騒動が起きたのである。とくに中野騒動では村々の豪農宅ばかりか、中野県庁も焼き討ちされ、県官吏までが殺害されるという激しさで、中野県の高石大参事は年貢金をもって、須坂、松代へと逃げ出すほどであった。三日間にわたる一揆勢の徹底した焼き討ちによって、中野町と松川村で四八六軒が焼失し、県内四十数ヵ村で一一〇軒余が打ちこわしの被害を受けた。現長野市域の村々では、須坂騒動のさい、綿内村で六軒が一揆勢の襲撃を受け、中野騒動では長沼宿と赤沼村で各一軒が打ちこわしにあい、大破している。中野騒動の一揆勢に対しては、松代にきていた政府の篠塚巡察属が説得にあたり、「一(ひとつ)当午(年貢)御値段三斗、一商社相止め金子割返しの事、一宿助郷廃止、一定免切替え先例の通り、前四ヶ条、天朝へ伺の上願筋聞届く、庚午十二月篠塚巡察属」の証文を渡すことによって終息に向かった。

 松代藩では二十日の朝、中野の村民蜂起(ほうき)の知らせによって、福島村と吉田村に各一小隊を置き、警戒にあたったが、二十日の夜、一揆勢の一手が川西より善光寺町に迫るとの報によって、さらに一小隊と大砲二門を善光寺町に向かわせた。一揆勢は水内郡の川西村々の数千人で、かれらは藩兵が到着する前にはやくも善光寺町をすぎ、荒木村辺の村人を煽動(せんどう)し、市村の渡船場から川中島に出ようとしていた。川中島で中野県管下の村々を誘引して高石のいる須坂をめざそうとしたものであったが、市村で善光寺町の応援に出向こうとした松代藩の三小隊と遭遇し、また、川中島村々も一揆勢阻止にまわったために、一揆勢は道をかえて栗田・千田をすぎ、布野(ふの)の渡船場に向かった。この一揆勢は布野で松代藩兵の阻止・説得で帰村したが、二十一日には、水内郡の北方山村四九ヵ村の村人数千人が蜂起し、高石のいる松代城下をめざして善光寺町へ押し寄せるとの知らせが入り、緊張感が高まった。しかし、押し出した人数は数百人にとどまり、かれらは小旗をもち、太鼓を打ち鳴らしてやってきた。途中での村役人の説得も功なく、善光寺東町から権堂村、妻科村の石堂組まで進み、ここで松代藩兵が阻止し、篠塚の証文をみせて説得にあたった。かれらは篠塚一人の署名の証文では納得せず、結局、篠塚に松代藩草間少参事が連署したもう一通の証文を見せ、さらにそこに捕亡四人が連署押印し、それを渡して解散させた。

 中野騒動には松代藩兵ばかりか、信濃国内の諸藩兵、さらには政府軍五七六人もかけつけ、こうしたなかで参加者六〇〇人余が逮捕された。川中島の今井・今里両村は、松代騒動についで中野騒動でも村人が一人も騒動に参加せず、また一致協力して一揆勢を防いだことが高く評価されて、「兼々心掛宜敷(かねがねこころがけよろしく)、上ヲ重(おもん)シ候 志奇特之事(こころざしきとくのこと)ニ候」との賞典が授与された。とくに今井村には村役人一同に金一〇〇〇疋(二両二分相当)、小前一同に金二〇〇〇疋(五両相当)が下賜された。しかし、直轄県での大騒動を重くみた政府は、二八人に死刑、一二四人に徒刑(懲役)一〇年という、信州一揆史上空前のきびしい処罰をくだし、この騒動を決着させた。しかし、この騒動の影響は大きく、廃藩置県、さらには県庁が長野村へ移転する原因となった。