松代騒動後、その収拾に多忙のなか、松代藩知事職返上問題がもちあがった。松代・中野騒動のさい、治安維持・罹災民救助、さらには暴民の逮捕を目的に政府は民部省はじめ、兵部省・刑部省から役人を派遣したが、明治四年正月早々、民部権大丞林友幸を中野県権知事兼伊那県事務知事心得、民部大丞吉井徳春を松代藩の責任者に任命した。
かれらが松代藩担当責任者、あるいは中野県権知事になると、まず手をつけたことが松代藩知事職返上の勧告であった。明治四年(一八七一)一月七日夜、吉井や林らは宿舎に松代藩の権大史長谷川深美(昭道)を招き、真田幸民の知事職返上をすすめたのである。吉井らの申し条は、朝廷では皇国の治安を立てるために天下を郡県にして治めようと考えており、ここ一両年には実行するはずである。それゆえ、知事にはこの場にて奮発して朝廷の意思を尊重し、諸藩に先立って知事職を返上して朝廷の意思が貫徹するように誠心を尽くしたらどうかというものであった。そして、さらに松代藩は信州の大藩であるから、松代藩がそうしてくれれば他藩ばかりか、隣国もそれにならい、朝廷の意思がいよいよ貫徹することになり、知事にはひとかどの忠勤となる。断然奮励し、また、知事においては若年であるので、東京で修行し、一藩の知事でなく、信州一国の知事になるように大志をたててほしいと迫った。
松代騒動による知事職罷免(ひめん)をさけたかった長谷川にたいして、吉井らはさらにつけ加えて、松代騒動と知事職返上とはまったく関係ないことで、朝廷の考え方を尊重し、「朝旨貫徹」の手助けをしてもらうにすぎず、藩士の食禄が削られることも住居の移動もないし、知事も家禄賞典で東京でさしつかえなく暮らせるので何一つ心配はない。むしろ、今般の汚名が一洗され、いよいよ勤王の美名を長い年月にわたって伝えることができるというのであった。そして、翌一月八日には、林が藩庁へ出向き、知藩事真田幸民をはじめ、権大参事大熊董、同岩崎懋(つとむ)らに前日と同様の趣旨を申し述べて知事職返上を説いた。真田幸民は「元より所願の事に候へば謹んで朝旨奉戴、速やかに知事職返上の儀願い奉りたき決心」であるとしながらも、自分は養子の身分でしかも若年未熟であるので、藩中一同の所存を聞いてみたいと述べて即答をさけた。
知事職返上という非常事態に直面した松代藩は、明治四年一月十二日、非役士族全員を藩庁に招集した。小書院の中央正面に真田知藩事、左に長谷川深美、右には大熊・岩崎両権大参事がすわり、岩崎権大参事が吉井民部大丞らから伝えられた文言を読みあげ、最後に「いずれも謹んで朝旨奉戴、大儀を明らかにし事体を詳(つまび)らかにし、旧習に拘泥(こうでい)せず、多年勤王の志、水の泡に相成らざる様篤(とく)と勘弁、忌憚(きたん)なく所存のほど申し聞けべき事」との知藩事のことばを代読してしめくくった。
このあと藩士たちは組ごとに分かれ、入札で議員を選び、議員となったものが議長の長谷川深美へ意見をのべることになったが、最終的には藩士・卒族一同で嘆願書を提出することになった。松代藩士族とその子弟一一〇四人、同卒族一六五一人が連印した嘆願書の概要は、「このまま知事職を返上すれば、朝廷にたいしても恐れ多いばかりか、藩内外にも面目がたたない。いかようの困苦もいとわず、衣服・家財までも差し出して才覚金をつくり、済急・商社両手形の取りまとめに尽力する。差し向き二〇万両がないと手形の取りまとめができないので、一五万両は藩士卒で出し、残りの五万両は知事の家禄で引きうけて、是が非でも両手形の取りまとめをしたいので、藩士卒の衷情を賢察いただき、このままの奉職を幾重にもお願いしたい」、というものであった。
こうして明治四年一月二十二日、権大史長谷川深美は、藩士卒の嘆願書をはじめ、少参事以上七人連印の嘆願書等を民部大丞吉井徳春へ提出し、知事職継続を懇願した。吉井からは才覚金調達の日取りのことが尋ねられ、長谷川は、士卒引受けの一五万両は一、二月に三万両、七月までに六万両、十月までに六万両を出金する見込みであり、知事家禄で引き受けの五万両も二月から十月までには才覚するつもりである、と返答した。藩士卒一体となっての懇願と才覚金二〇万両の拠出が功を奏し、真田幸民の知事職は継続されることになった。松代城下の町々では、藩中で一五万両を禄に応じて上納することになったため、それぞれが寄り合いをもって倹約に関する定めをつくっている。田町の定則はつぎのようであった。
一 酒食ヲ恣(ほしいまま)ニシ、愉快(ゆかい)ノ集合堅(かた)ク停止(ていし)スベキ事
一 居家ヲ新ニシ美麗(びれい)ヲ飾(かざ)ル、且(かつ)衣服類・諸道具華奢(かしや)風流ノ類(たぐい)、無用(むよう)ノ事
但 手入レ等ニ至ルマデ成(なる)ベクダケ見合(みあわ)セ、非常ノ公務ヲ欠(か)クベカラザル様心掛(こころがく)ベキ事
一 音信贈答、堅ク禁止(きんし)ノ事
但 公務ニ関ワリ、或ハ他国ヘ対シ候節、此限(このかぎ)リニコレ無ク、
一 吉凶(きつきよう)ノ節、組合相互ニ助力致スベキ事
但 粮糧(りようしよく)持参ノ事
右ノ条々法令、愈堅答厳粛(いよいよけんとうげんしゆく)ニシテ互ニ吟味(ぎんみ)ヲ遂(と)ゲ申スベキ者也、
明治四辛未正月
明治四年四月二十日、知藩事はじめ、権大参事などへ政府から謹慎処分があり、また、産物会所・商法社も四月末をもって停止となった。五月には騒動首謀者小平甚右衛門が処刑されて松代騒動にいちおう区切りをつけた。藩士卒の才覚金は明治五年調べで、一万二七五二両にとどまった。
いっぽう、中野県は騒動前の明治三年十一月に善光寺領の管轄を政府に願いでていた。伊那県時代の三年六月に松代藩預り領を、ついで中野県となった直後の三年十月には戸隠神領を管轄下に収め、政府直轄地の拡大につとめていたのである。中野県が善光寺領を管轄したいとする理由は、①戸隠神領を管轄するようになったこと、②信州第一の諸人集会の場所で、とかく盗賊・博徒の潜伏場所となり、格別厳重の取り締まりが必要であること、③中野県管轄の権堂村とは入会同然の場所であること、などであった。
中野県の主張は、中野騒動が起こって一時棚上げのかたちとなったが、明治四年二月十一日、太政官布告が出され、善光寺領が中野県管轄となった。これによって善光寺は封建領主の地位を失い、二月二十九日には善光寺領の長野・箱清水・七瀬・平柴の四ヵ村、一〇七五石余が中野県に移管された。つづいて政府は二月二十日の太政官布告で、これまで暫定的においた民部権大丞林友幸の中野県権知事職を解き、徳島藩の立木兼善(たちきかねよし)を中野県権知事に任命した。
立木兼善は、明治四年三月十日に中野に赴任した。立木の中野県権知事就任で、中野県は再建に向けて本格的に動きだすことになった。立木は、まず善光寺町に取締出張所を設置した。三月十七日の善光寺取締所心得方によれば、その管轄範囲は、旧善光寺領の長野・平柴・箱清水・七瀬の四ヵ村のほか、権堂・荒木・千田・栗田、さらに更級郡の塩崎・今里・今井・上氷鉋・下氷鉋の村々であった。また、出張所には官員二人を駐在させ、村役人の監督・進退をはじめ、人口・戸籍の取り調べ、伝馬所の取り締まり、博徒・遊惰(ゆうだ)者の取りただしと処分伺い、官林見回り、社家・寺院の風俗取り締まり、復飾・自葬祭等の取り調べ、盗賊・浮浪者の糾弾、などにあたらせるとした。しかし、出張所の管轄範囲が広く、取り締まりの内容も多岐にわたったため、実際には二人では手がまわらず、三月十八日付けで佐山(間ノ川を改名)又五郎を捕亡方等外四等属に任命して出張所詰めとし、かれの子分の倉吉・平作・軍治が市中見回り、新助・善之助が官林見回りをおこなった。大勧進へも手伝いの依頼があって、今井中三と中野鉄二郎が三月二十二日から出張所へ詰めている。このほか村政に対して、立木は、上下の行き違いが生じないようにと、一年交代であった村役人の任期を三年とし、また、目安箱を設置して人心掌握につとめた。
こうして県政を推進するいっぽう、明治四年五月十日、立木は長野村の善光寺町への県庁造営と県名の長野県への改称を政府に出願した。中野県庁が前年の騒動でことごとく焼亡し、再建するにも中野が北国街道から五里余も入った辺鄙(へんぴ)の地で、諸事に不便であることが県庁移転の最大の理由であった。善光寺町を候補地としたのは、善光寺町が信州一等ともいうべき繁華の地であるから、ここに県庁を造営して取り締まり、悪害が諸方へ流宣することのないようにしたい、というのであった。この出願にあわせて善光寺町の最寄りの村ということで松代藩領の吉田・押鐘・宇木の三ヵ村と椎谷(しいや)藩領の中御所・問御所の二ヵ村、計五ヵ村の管轄も願いでた。これらの願いは、明治四年六月に太政官布告によって認可となり、ここに長野県が誕生した。中野県から長野県への改称は、七月五日に村々に布達された。新生長野県は、さらに七月八日、松代藩領の﨤目(そりめ)・三輪・妻科・腰・上松の五ヵ村の土地や家屋が支配村々と入り交じっており、戸籍編成をはじめ、そのほか何かと不都合が多いので、管轄下に組み入れてほしいと政府に願い、八月に政府の認可となった。
長野県が県都一円支配の拡大をはかっているさなか、政府は、明治四年七月十四日、廃藩置県を断行した。これによって、松代などの知藩事は解職となり、松代藩も松代県となった。松代県の運営は、八月十九日に新たに任命された権大参事の赤沢蘭溪(らんけい)・河原均・長谷川深美らにゆだねられた。長野県では仮県庁を善光寺西町の西方寺と定め、七月二十四、二十五日に官員とその家族が中野から長野へ引っ越し、翌二十六日、西方寺を庁舎に県庁を開庁した。善光寺にあっては、明治三年十二月の社寺上知令によって、明治四年からはこれまでの年貢の半額が寺禄として支給されることになったが、その経済的打撃は大きかった。しかも、明治四年十月十一日には善光寺を訪れた長野県官吏によって三(山)門から上が境内地と定められ、堂庭と旭山・大峰山の二山が没収された。寺侍にも十月に帰農令が出され、大勧進では十一月末に今井磯右衛門以下九人の帰農商願いを県へ提出、十二月初めに認可されている。
その後、明治四年十一月、これまでの諸県が廃止となり、松代はじめ、飯山・須坂・上田・小諸・岩村田などの県が長野県へ統合された。松代には長野県松代庁が置かれたが、明治五年二月二十八日に松代庁のすべてを長野県庁へ移管し、閉庁した。同年五月、長野県庁の造営に関して、六十余名の旧松代藩士族が旧松代城を県庁にするように請願書を提出したが、県庁の移転にはつながらず、その城郭も翌年の火災で灰に帰したのであった。