郷学校の設置と日新館

55 ~ 62

明治新政府は明治二年(一八六九)二月、幕府領(天領)・旗本知行所を府および県とし、藩とあわせて全国を府・藩・県の三種類に区分した行政制度で統治(とうち)することにした。この制度の施行にあたって「府県施政順序」を公布したが、このなかに小学校を設置することをかかげた。明治新政府はまず最初に新しい教育制度の展開を打ちだしたのである。政府はこの新しい小学校の経費は、すべて民間が拠出(きょしゅつ)してまかなう方針をとった。新政府の布達がでる前から、小学校の設立を構想していた京都府は、新政府の方針にしたがい「第○○番小学校」という名前をつけた小学校を開設した。


写真24 川中島町今里古森沢の今里郷学校の跡地

 北信地方ではこの政府の方針により、○○郷(ごう)学校・××義校・△△義塾、または日新館というような固有名をつけた学校を設立したが、○○小学校とは名乗らなかった。明治初年には松代藩が存続していたので、藩の武士の子弟が学ぶ藩校(文武学校)と、平民子弟の学ぶ郷学校との複数の教育機関があった。

 明治二年七月に設置された大学(のちの文部省)は、新制度の学校を小学校ではなく郷学校と呼び、その設立を各府藩県知事に委任する方針を打ちだした。以後各地に藩や県の主導で郷学校が設置された。長野県(旧長野県)と筑摩県にはおよそ二〇〇校の郷学校がつくられた。郷学校というのは、同五年八月に公布された「学制」で、新教育の制度が確立するまでのあいだに設置された学校の総称である。

 郷学校の教科課程は学制期の小学校とは異なり、漢学や皇学、算術、筆学などが教授されていた。寺子屋よりは高級で、旧藩時代の私塾のような性格をもった学校であった。この郷学校は旧長野県では学制以後はいっせいに廃止されたが、筑摩県では小学校に移行した。


写真25 太陽暦採用の太政官布告の写 (西之門町区有)

 信濃国の最初の郷学校は、明治二年六月に更級郡今里村に設立された日新館である。京都府の最初の小学校である上京区第二七番組小学が設置されてからわずか十数日後という、全国的にみてももっとも早い時期の開校であった。同四年七月(一八七一年八月)に廃藩置県がおこなわれ、全国は三府三〇二県となったが、このとき以後、ほどなく旧藩以来の藩校は廃止された。松代藩学校は廃藩置県で松代県学校と名称を変更したが、同年十一月(十二月)におこなわれた府県の統合で松代県が消滅したので、松代県学校は同四年十二月二十八日をもって廃止された。

 府県統合で信濃国は、北の長野県(旧長野県)と南の筑摩県の二県体制となった。また、明治四年四月から「戸籍法」の施行で、長野県下は七二の戸籍区に分けられていた。長野県は同四年十月十四日、県下の村々に郷学校の設置を布達し、各戸籍区ごとに学校を設置するよう指導した。生徒は七歳から一五歳まで、学資金は各区の資産石高の〇・五パーセントを拠出し、寄付金を募(つの)って官費助成金と合わせて運営するように布達している。

 この布達を受けて、長野村(大門町近辺)や善光寺周辺の二七ヵ村が協議した結果、長野に大学校一校、大村に小学校、小村は連合して小学校一校を開校すること、を県に提案している。さっそく、千田村や栗田村などは賦課米(ふかまい)および学校の予定教師名を県に提出したが、長野村では賦課米の算定に難航(なんこう)した。農村部では各家の石高(こくだか)は明確であるが、善光寺の門前町で商業を営む人びとの賦課金算定をどうするか、協議が必要であったのである。

 藤井伊右衛門は他の有力者七人とともに県から学校世話人に任じられ、県がすでに用意していた有志寄付金帳を渡され、集金を強要された。世話人七人の協議で、長野村内の八〇〇〇戸に対し一戸三石持ちの割合で賦課金を課すこととし、年額一五〇両を集めることにしている。大勧進・大本願と善光寺関係の寺院やその家来衆からも寄付金があった。

 長野県は明治四年十一月に、水内郡妻科村正法寺(長野市西後町本願寺別院)に長野県学校を開校した。集まった生徒は、七歳から三六歳までの一八〇人であった。その出身地等の人数は表3のようである。このうち水内郡が一三八人で全生徒の七七パーセント弱、残りは井上清介の塾生一〇人、山寺常山の塾生一四人をふくめ、更級郡、高井郡、埴科郡、小県郡である。長野県学校とはいっても、このように生徒出身地の実態は長野町周辺の生徒が大部分であったが、この時期に郡域をこえた周辺からも生徒が集まったことの意味も見のがせない。長野県学校の生徒は、教科を各自の希望で選択できる制度であった。一科目だけの選択、あるいは二科目、三科目を兼ねて学習することも用意されていた。


表3 生徒出身別人数

 日新館は、更級郡今里村古森沢(長野市)に明治二年六月五日に設立された。この学校は現在の川中島小学校の前身である。同二十四年(一八九一)編の『今里尋常小学校沿革誌』は、有志の協議により「日新館」の設立にいたったとしている。なぜこの地にこのように早く郷学校が設立されたのか、その詳細は明らかではない。前記沿革誌と『更級郡埴科郡人名辞典』から日新館設立の功労者を拾うと、つぎの七人の名前があがってくる。四人は今里村で、他の三人は中氷鉋村であった。その人びとの氏名と経歴をあげると、今里村 村澤玄叙(医者、のち北海道で商業)、更級弘雄(のち学校世話役、学校執事)、坂口与左衛門(庄屋、寺子屋師匠)、更級久衛(名主、戸長、大区長)、中氷鉋村 青木益之(庄屋、のち学区取締)、青木直人(益之長男、のち師範学校教員)、青木左右衛門(庄屋、寺子屋師匠)であった。この七人は土地の実力者であり、地域の教育にかかわっていた人たちであることがわかる。

 今里村は幕府領と旗本知行所(上田藩の分家)が入り組んでいた。塩崎に陣屋を構える松平忠厚は、上田藩主忠礼の異腹の同年齢の弟であり、のちには旧藩主の兄とともにアメリカに留学している。上田藩と若い殿様兄弟の前向きの姿勢も、行政に影響があったものと考えられる。

 前述のように、日新館は庄屋で寺子屋師匠(ししょう)であった坂口与左衛門から、敷地と家屋の寄付を受けてここを学校として出発した。以前は坂口家の寺子屋であったところである。発足当時の教科課程は不明であるが、明治十一年の明治天皇行幸にさいして、日新学校(日新館の後身)が提出した書類によれば、漢学・筆学・算術が教授されていたという。寺子屋よりは高級な学校であったことは、教師に松代藩儒者の養子で林大学頭(かみ)に学んだ小林常男を招いたことで推定できる。


図2 今里郷校(日新館)の平面図
(『川中島小学校百二十年史』より)

 明治三年にいたって、日新館は上田藩の郷校に編入され、今里郷校と改称された。私立の学校が政府の郷学校推進政策の布達で、上田藩立に衣替えしたのである。改編と同時に手狭になった古森沢の坂口邸から松木河原に移転した。このとき、領主松平忠厚は二〇〇円と塩崎陣屋の一部を寄付している。さらには廃藩置県でこの日新館は第三六区学校となり、学制下では第三三番小学「日新学校」となった。

 今里郷校は上田藩校明倫堂の分校ではあったが、旧上田藩士の教育機関ではなく、地方の有力者の子弟を中心とする平民入学の学校であった。首座教員は、松代藩士の小林常男が解任され、上田藩士湯浅迂曹が任命されている。生徒の質は変わらないが、経営の責任主体は確実に変化した。湯浅が辞任したのち、同じく上田藩士古賀貞夫が赴任した。長野県が成立したあとも古賀は在任したが、同五年三月辞任し再び小林常男が招かれている。

 今里郷校は明治三年に松木河原へ移転したというが、校舎の建築は明治四年九月であり、敷地は四〇四坪、建物は八五坪で、校舎二棟に一棟の用務員室を備えていた。地元の今里・岡田・戸部・中氷鉋村から二〇〇円の拠出金があり、郷校は藩と民間の共立で経費がまかなわれている。

 第三六区の区学校(一六ヵ村連合)は、今里郷校を引き継いだものであるが、学校の事務は、出納係 伊藤盛太郎、飯島新左衛門、吉沢泰九衛門、用度係 更級弘雄、坂口与八郎、生徒取締 青木左右衛門、青木益之、村澤玄叙の陣容で、日新館以来の人びとが学校を守っている。

 教科は、習字教師と同助手および句読教師助手が任用されているので、漢学・皇学のほかに素読や習字が教えられていたのがわかる。

 明治六年の第三六大区区学校の六ヵ月間の経費は一七四円余であるが、それは表4の村々から拠出されていた。


表4 第36区学校各村出金 (明治6年11月)